うとQ世話し 過ぎたるは及ばざるが如く、にて

2021/3/1-3
(うとQ世話し 過ぎたるは及ばざるが如く、にて)
大企業での会社員時代に、事業部でのコンセンサス取得と意思決定を行う会議の資料作りをしていた折、上司から
「上程資料に当たっては、常にマトリクス思考を忘れるな。縦横斜め、どこから見てもほころびや矛盾がないことを必ず確かめてから、もってこい。厳しくチェックするから」
と散々言われました。
確かにおっしゃる通り。
しかし、これを普段の生活に当てはめてみると
「何かを行うことで後先に引き起こされると想定される結果を常に事前に確かめ、左右からの人の目線をも気にしながら、現在位置での一挙手一投足に「責め」が降りかからないように恐る恐る歩く」
姿しか浮かんできませんでした。
役所内の「そこここに言訳が矛盾無くちりばめられ、誰にも迷惑が掛らず四方八方丸く収めて、一同めでたし、めでたしの会議」(之はコロナ渦前のお話ですから、誤解無きよう。現在はいっかなお役所と雖も、そのようなことにはなっていようはずがありませんでしょう、けれど)に上程する資料の準備心得としてならいざ知らず、イノベーティブな案件については、そもそも初っ鼻から、前後左右矛盾無き三方両得などと言うことはあり得ないはずです。
大抵は、一カ所が突出していて、後は平均以下の得点で、ヒトデ型グラフにすれば、槍型ないしは不格好な異形グラフなる事が普通だからです。
平たく言うと「とんがっている」と。
換言すれば
「矛盾だらけで不整合だが荒削りな野人の如き不格好の魅力」
となると、日常生活のみならず、事業戦略会議に於いても、前後左右矛盾無く、突っ込みようのない「綻びゼロ提案」などと言うもの自体、おかしいのではないのかな?と最近になって思い始めました。
つまらないところで引っ掛かって、その正誤確認に無用の時間を費やすのは確かに愚の骨頂ですし、それを回避するための技術論としてのマトリクス思考(ステップ)は必要な気はしますが、それが事業戦略や生き方にまで拡大されて縛られてしまうようであるなら、之は百害あって一利無し。
将に我が国に特徴的な、余りにも安全確保ののりしろを取り過ぎる、それこそ日常茶飯に起きている「過ぎたるは及ばざるが如く、にて」の代表例のような気がいたします。
「安全安心は当たり前」も度が過ぎると反対に「いざ安全安心が失われた時の危機への耐性力、まるでなし」にもなりかねません故、ほどほどになされますよう、お願い申し上げまする。
「過ぎたるは及ばざるが如く、にて」の過剰保護を。

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