うとQブログ 自分の中に軸がない。自分の軸は他人目線の中にある。これでは人生辛かろう
2020/9/4
(うとQブログ 自分の中に軸がない。自分の軸は他人目線の中にある。これでは人生辛かろう )
昨日の記事(これはSNSには上梓せず。サバイバル日記9月の巻(10月発刊予定)に掲載)を読み返してみて、ふと思ったのですが
「結局、軸(と視界)が自分の中の何処にも無い」
だからふらふらするし、落ち着かないし、逃げ腰になる。
「軸」については、まず人の目線がとにかく気になり、それに合わせて自分を作る。なので、軸(=殺生与奪の権限)が自分の外にあることになって、これがふらふらと落ち着きのなさの元になる。
「自分の主が自分ではない」から。
次に「視界」に関しては、これは目線を発する側の話で、自分はさておき棚に上げ、というより自分に関する不都合は、十重二十重の捻りを入れて自分の背面、後方、奥深くに隠匿したうえで、界最上位特別審査官(員)として、実にハイレベルな審査内容で、のっけから相手の対象規定演技評価箇所(=欠点や粗)の減点項目を探し始める。視界の中にあるのは「交流すべき隣人」などではなく「高得点獲得の為なら何でもいいなりになりそうな嘆願者」との関係のような雰囲気。
冒頭の前者は後者にもなり、後者になるからこそ前者の振舞いにならざるを得ない。
これは少し言い方を変えれば、する方もされる方も「自分をさておいて」の仮想代理空間(アバターワールド)のようなものなので、仮想である分、実の結びようがないことにもなります。
一体この悪循環はいつから始まったのでしょうか?
まぁ、いつから始まったか?何故そうなったのか?は別として
「人がどう見ようと、自分はこれで行く。言いたい奴には言わせておけ。全員に好かれることなど決してないのだから、それで一向にかまわない」
と言い切ってしまえば上述の悪循環など飛散霧消するような気もするのですが、どうなんでしょうかね?
自分はそれが、少なくとも我が国のニューノーマル始まりの核心的条件の一つだと思っているのですが。