(題名改変書直し版 うとQ世話し 神さまって「願い事叶え役」って訳じゃない様な気がするんだけど)
2022/8/1
(題名改変書直し版 うとQ世話し 神さまって「願い事叶え役」って訳じゃない様な気がするんだけど)
以下の話は日本の風習に対する感想の話で、宗教観そのものに基づく話でも、外国に当て嵌める話でもないので決して誤解なさりませぬよう。
「霊験あらたか」
「祈願に対して成就率、極めてハイスコア」
「それがいい神様」
という風によく言われるのですが、自分の感触としては
「八百万(やおよろず)の神々様はどの神様方も皆、決してこちらが思い描くような形では祈願に対するお答えをお示しになられない。違った姿形でお示しになり、それに祈願者である我々が気づくかどうかお試しになられる」
というのが是迄の体験から得た感想です。
そしてそのお示しになられるもっとも一般的な方図が
袖すり合うだけの縁か身近である者かは別として
「たいていの場合、何気ない時の、問わず語りの人の口を借りて、そのヒントだけポロリとお示しになられる。
気づいたなら、
後は自分で考えて、
それを試してみよ」
というなされ方。
更に神々様はどの神様方も皆々、二段構えでお試しになられるようです。
同じ人の口を借りてでも、祈願者が最も忌み嫌う人の口を借りてお示しになられる場合もあるようです。
「言っている内容と言った本人を忌み嫌うかどうかをちゃんと分けて考えられているかどうか」
即ち「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の魔にとらわれて事の良し悪しを見抜くことができないかどうか?をお試しになられる場合もありそうです。
そして更なるお試し。
「見つけたそれを己のためだけに使うのか?人の為「にも」使うのか?どちらだ?」
と。
「口先だけで言ってもすぐに見抜くぞ。いいか?本心で答え、実際の行為で示せ」
後記)
八百万(やおよろず)の神様方は祈願に対するお答えをダイレクトに成就結果として持ってこられるのではなく、その達成のヒントのみをほんの少しだけ「チラ見せ的に」お示しになられるにとどめられている様な気も致しております。
そして
「ヒントは示した。しかしそれを成就させるも否も、己次第。以降はお前の側の問題だ。さぁどうする」
と逆に問いを投げ返されているような気がしてなりません。