「103万円の壁」について、政治家のみなさんに問いたいこと

メリークリスマス。
Utokaです。

さて。

いわゆる「103万円の壁」を巡る議論について、この間、様々な出来事が起きているようです。

僕は少し距離をとって眺めていますが、少し思うんですね。皆さん、ナイーブになりすぎていませんか?

与党も野党も、重箱の隅をつつくような事で右往左往してみたり。

政治家の皆さんも…国民民主党も含めてです…皆さん、まるで官僚みたいじゃあないですか。あなたたちは官僚ではなく、政治家でしょう。

政治家には、政治家にしかできない仕事があるはずです。だから政治家になったんでしょう?
あるいは、なろうとしているのでしょう?

基礎控除の”政治的な意味”を考える

基礎控除というのは、ある意味、非常に"政治的な"制度だと思います。

国税庁公式サイトに記載されている通り、この制度は憲法25条の要請によるものであり、「最低生活費」を除いた残余に対して課税されるべきとの考え方に基づいて設計されています。

所得控除の意義及び性質

所得に対する租税は、資産に対する租税と並び、相対的にみて「担税力に即した課税」を行うことができるという優れた性質を有している。そこで、所得税の負担のあり方を考える場合には、「担税力に即した課税」ができるという利点を生かすことが重要となる。

この担税力とは何かという点については、基本的には租税を負担する能力のことを指すものであり、憲法25条の生存権すなわち「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障する水準が担税力の有無を判断する基準として有意であることに、おそらく異論はないであろう。このため、所得税の負担のあり方を考えるに当たっては、最低限度の生活を維持するために必要な部分(以下「最低生活費」という。)を除いた残余に対して課されるべきであるということとなる。

https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/kenkyu/ronsou/48/tanaka/hajimeni.htm

これは即ち、論理的・科学的な性質のものではなく、ある種の思想哲学的な要請に基づくものであると解しても良いでしょう。“プラグマティックではない”…と言っても良いかもしれません。

そうした「損得で図るべき性質のものではない」という意味で、『政治的な制度』だと僕は捉えています。

だからこそ、「官僚的な」思考や発想も大事ですが、「政治家的な」思考回路が重要になるのではないかと思うのです。

時代劇のたとえ

時代劇に慣れ親しんだ我々日本人であれば、この制度の"背景にある物語"バックストーリーは容易に共有できるものと思います。

飢饉に苦しむ農民のところに役人がやってきて、「お上の定めじゃ、年貢の納め時じゃ」と言って、ボロボロの小屋からなけなしの貯えを奪ていく。「それを持っていかれたら冬を越せない」と泣きつく農民を足蹴にして。

最低限、生きていくために必要なものすら徴税していく”時代劇の悪代官”に、「なんて悪いやつだ」と思ったことのある人は、少なくないでしょう。

しかして、令和の世に生きる我が身を振り返ってみれば、まさに同じことが起きているわけです。最低限、生きていくために必要な収入に対しても課税されている。

もっとも、この現状を改めることに関しては、大きな異論は無いものと承知しています。

「できない」となった場合、何を意味するのか

だからこそ問題は、これが「できない」となった場合、それが何を意味するのかということです。

即ち、「最低限、生きていくために必要な収入に対して"すらも"課税しなければ、この国の制度はもはや持たないのだ」ということであり。

あるいは、「世界第四位の経済規模と勤勉な国民に恵まれておきながら、他国では当たり前のように出来ている『最低生活費に課税しない』ということを、日本の政治家では実現できないのだ」ということを、与野党揃って雁首並べて自ら証明してみせることにもなりかねない。

さらには、「現役世代の皆さん。皆さんの最低生活費を我が国は守りません。最低限生きていくために必要な収入からも税金を取らせて頂きます」という強力なメッセージを打ち出すことになるでしょう。

これらの政治的なメッセージ(になってしまうもの)を見逃すほど、世界の目は節穴ではないと思います。もちろん、マーケットも。

日本全体が「衰退する地方」になる未来


ずいぶんと長いこと、この国では、「地方の衰退」が叫ばれています。

国民民主党 衆院青森2区の「かねはまあきら」さんは、地元青森のことを「課題先進県」だとよく言っています。

青森の課題は、いずれ青森だけの課題ではなくなる。日本全体の課題になる。

彼の言う「課題先進県」という言葉が、なぜだかずっと、心の中に留まっている。それは何故かと考えた時に、一つの想像が…あくまで想像ですが…浮かび上がることに気付きました。

「衰退する地方」が、「衰退する日本」になる未来です。

「支える側」が立ち去った社会の未来を、我々は知っている

この年末、地元に帰省される方も多いでしょう。

子どもの頃には賑わっていた地元の商店街が、今となっては閑古鳥の鳴くシャッター商店街に成り果てている。かつての賑わいを取り戻すことなど、もはや想像すらも叶わない。

そんな光景も、今となっては珍しくありません。

そうなってしまった理由は様々でしょう。
しかし結果として、一人、また一人と若者たちが地元を離れ、都市部に出ていき、そして帰ってこない。

『支える側』の人々が立ち去った社会がどのような未来を描くのか、今この国に生きる我々は、よく知っているはずです。

それと同じことが、今度は日本全体で起きるのではないかと、僕は少しだけ懸念しています。

「地方」が「日本」に、「都市部」が「海外」になる未来

かつて、そして今も起きているこの現象は、「地方」から「都市部」への人材流出と言っても良いでしょう。

この「地方」を「日本」に、そして「都市部」を「海外」に、置き換えてみてください。

「地方」から「都市部」へ、一人、また一人と現役世代が出ていき、故郷から姿を消していった過去と同じように。

「日本」から「海外」へ、一人、また一人と現役世代が出ていき、故国から姿を消していく未来が、僕には見えるような気がするのです。

もちろん、地方から都市部に行くのと、日本から海外に行くのとでは、ハードルの高さが違います。ですが時代の流れの中で、文化と国境の壁は、かつては考えられなかったほど低くなっています。

”グローバル・エリート”ではなくても、“ごく普通の一般家庭の息子や娘”が、簡単に海外に”出ていくことができる”時代が、目前に迫っています。いや、既にそれは到来しているのかもしれません。

僕の身近なところにも、そうした人々が何人もいます。

未来への責任:日本全体がシャッター商店街になる前に

もう一度言います。

『支える側』の人々が立ち去った社会がどのような未来を描くのか、今この国に生きる我々は、よく知っているはずです。

そして、今は「地方」において起きているその現象が、「日本」全体に起きる未来があるのだとしたら。

日本全体がシャッター商店街になる未来があるのだとしたら。

その"誰も望まない未来"へと至る道を避け、あるべき未来へと至る道を選択することこそが、今を生きる我々が果たすべき「未来への責任」ではないかと思うのです。


今日はクリスマスです。
これからお正月です。

渋谷や新宿の繁華街は、きっと賑わっているでしょう。この賑わいが消えることなど、今は想像もできません。

しかし、かつては地元の商店街も、そうだったのです。大変な賑わいでした。あの賑わいが消えてしまうことなんて、想像もできなかった。

しかしいつの間にか、その「想像もできなかった未来」が、目の前の現実になっていた。

我々はまた、同じ過ちを繰り返すのでしょうか。

世界の”人材競争”に勝ち抜く日本へ

今、世界で起きている競争の本質は、「人材競争」だと言われています。人材獲得競争であり、人材育成競争です。

この厳しい競争を勝ち抜かねばならないことを考えた時、

「最低限、生きていくために必要な収入に対して"すらも"課税しなければ、この国の制度はもはや持ちません」

「現役世代の皆さん。皆さんの最低生活費を我が国は守りません。最低限生きていくために必要な収入からも税金を取らせて頂きます」

という政治的メッセージを結果的に打ち出してしまうこととなれば、それはマイナスに働くことはあっても、プラスに働くことは無いでしょう。

こうした観点もまた、見落としてはならないものと思います。

与野党の政治家の皆さんへ

問います。

あなたがたは、この国を、どんな未来に導きたいのですか。そして、その未来に至る道の中に、この所得税制の改正をどう位置付けていますか。

それを語ることができるのが、「官僚」ではなく「政治家」である、皆さんのお立場ではないでしょうか。

重箱の隅をつつくような些末な出来事に、いちいちナイーブになっている暇など、ございませんでしょう。

政治家たるもの、天下国家の大局観、一つや二つ語ってバチはあたりませんよ。新人だろうが地方議員だろうが落選中だろうが、おれにいわせりゃ関係ないね。

地に足つけて、地元をしっかり回って、そこからデカい視点を掘り起こして下さい。

あなたがたには、それができるはずです。