玉木一兵卒ダボスへ行く:国民民主党の政策観と世界を接続する「人間の安全保障」への洞察
Utokaです。
われらが玉木一兵卒がダボス会議に出席とのこと。年始に上げたネタ動画でも一部ネタにしてるんですが、改めて「がんばれ玉木一兵卒」ということで。
僕もちょっと、グローバルな視点で国民民主党を語ってみようかなと思います。
国民民主党の政策観と通底する『人間の安全保障』
僕は前々から個人的に、国民民主党の政策観は、『人間の安全保障』と通底する部分があるのではないかと思っています。これは20世紀の終わりから21世紀の初頭にかけて、日本が世界をリードして確立した概念です。
(※『人間の安全保障』というと、いかにも旧民主党的リベラルなイメージがありますが、自公政権の外交の成果であり、まさに世界の潮流を変えたエポックメイキングな偉業だということは添えておきましょう。皮肉ではなく本当にそう思ってますよ。)
『人間の安全保障』とは:
一義的には、「人間の安全保障」は、国際社会の取り組みの中で用いられる概念です。その定義は、『人間の生にとってかけがえのない中枢部分を守り、すべての人の自由と可能性を実現すること』とされています。
従来の安全保障の概念は、その『守るべき対象』が『国家』であることを前提としていました。そうした従来の安全保障の対象を『人』そのものへと拡張する概念が、『人間の安全保障』です。
何のために「人間の安全保障」があるのか
では、『人間の安全保障』は、一体何のためにあるのでしょうか。
ここで注目したいのは、2005年世界サミット成果文書(A/RES/60/1)より、パラグラフ143の記述です。
Human security
143. We stress the right of people to live in freedom and dignity, free from poverty and despair. We recognize that all individuals, in particular vulnerable people, are entitled to freedom from fear and freedom from want, with an equal opportunity to enjoy all their rights and fully develop their human potential.(※以下略)
人間の安全保障
143. 我々は、人々が、自由に、かつ尊厳を持って、貧困と絶望から解き放たれて生きる権利を強調する。我々は、全ての個人、特に脆弱な人々が、 全ての権利を享受し、人間としての潜在力を十分に発展させるために平等な機会を持ち、恐怖からの自由と欠乏からの自由を得る権利を有していることを認識する。(※以下略)
※太字は筆者
注目したいのは、「人間としての潜在力を十分に発展させる」という要素です。
これが一体なぜ、どのように国民民主党の政策観とつながってくるのか。
ここから少し、具体的にお話しましょう。
氷河期世代と「人間の安全保障」
まず、「人間の安全保障」を内政へと拡張するために、その具体例として「氷河期世代」を考えてみましょう。
前述の通り、「人間の安全保障」は、主に国際社会の取り組みの中で用いられる文脈です。しかし、この概念を内政へと拡張します。
すると例えば、「氷河期世代」というのは、まさに「人間の安全保障」が担保されなかった世代だと捉えることができます。
確かに氷河期世代は、経済政策の失敗であり、社会政策の失敗であり、雇用・労働政策の失敗でした。しかし、その結果として何が起きたのか。
皆さんも、「氷河期世代の人を中途採用で雇ってみたら、優秀でビビった」という話を聞いたことがあると思います。
そうなんです。氷河期世代というのは、怠けていたわけでも、不真面目だったわけでもない。ただ、「潜在力を発揮し、発展させる機会」に恵まれなかった。力が無いんじゃないんです。力を発揮する機会を、そしてさらに発展させる機会を…「平等に」担保されるはずだったその機会を、得ることができなかった。
今、多くの企業が「中堅人材の不足」に悩まされているのも、当然です。
氷河期世代の「復興」
このようにして考えれば…つまり、氷河期世代の問題が、本質的には人間の”安全保障”の問題なのだと捉えれば、必要なのは「復興」だと言えるかもしれません。「救済」や「対策」ではなく「復興」です。要するに、就職氷河期というのは「経済災害」で、氷河期世代は「経済災害の被災者」なんですよ。
紛争や自然災害やその他さまざまな要因によって、「人間としての潜在力を十分に発展させるために平等な機会」を得られず、「恐怖と欠乏」「貧困と絶望」に押し留められてしまっている、世界中の困難な人々と同様にです。
こうして考えていけば、「人間の安全保障」を拡張すれば、それが国際社会の中だけの問題ではなく、あるいは新興国支援や国際開発の文脈に留まるものではなく、わが国の内政においても適用し得る概念であると言えそうです。
国民民主党の政策はどれも『人間の安全保障』に通底する
さて、ここまでの考え方に立脚して、国民民主党の政策をざっと眺めてみましょう。
「人間の安全保障」、すなわち「人間としての潜在力を十分に発展させるために平等な機会」を担保し、もって、社会全体の潜在力を高め、世界の発展と幸福に寄与していく。
こうした『人間の安全保障』の概念を補助線として引いてみると、国民民主党の政策は、いずれもここに接続されます。
「年収の壁」もそう。まさに「働きたい人の意欲を押し留める」ものであり、潜在力の発揮を阻害する制度になっている。これを改めるのは、まさに潜在力の発展の機会を担保することであって、『人間の安全保障』そのものです。
「人づくりは国づくり」も、「教育・科学技術支援」も、「食料・経済安全保障」もそう。いずれも『人間の安全保障』概念に帰結させることができる政策です。
伊藤たかえさんの「ヤングケアラー支援」や「孤独・孤立対策」も、田村まみさんの「カスタマーハラスメント対策」「薬価・医薬品供給問題」もそうです。
全部ここにつながってくる。
『人間の安全保障』なんですよ。
従来と異なる政策領域
こうして「人間の安全保障」を内政へと拡張すると、そこに現れるのは、従来の政策観とはまったく異なる政策領域です。
ただ「経済指標の改善」ばかりを追う経済政策とも違うし、「プライマリーバランスの健全化」だけを追う財政政策とも異なる。「最も困っている人の救済」ばかりにフォーカスをあてる社会福祉政策とも違います。
「年収の壁の引き上げ」なんて、まさにこれですよ。
従来の経済政策、財政政策、あるいは貧困対策のような社会政策の枠組みで見ると、てんで的外れに見えるでしょう。もっといい政策が、もっといい税金の使い道があるように見えるはずです。
しかし、「人間」そのものに着目する「人間の安全保障」概念でもって捉えれば、これはまったく的確な政策です。人々の良識と潜在力を信じ、その発揮と発展を後押しする。それを阻害する「年収の壁」を大幅に引き上げる。
だから、「年収の壁引き上げ」もまた、『人間の安全保障』だと捉えることができると、僕はそう思っています。
国民民主党の政策の柱は「人間の安全保障」の上に立っているんじゃないか
こうやって考えていくと、国民民主党の政策の柱は、「給料・年金の上がる経済」にしろ、「人づくりは国づくり」にしろ、「自分の国は自分で守る」にしろ、ぜんぶ「人間の安全保障」という土台の上に立っているんじゃないかと。そういう気がするんですね。
ダボス会議に行く玉木さんへ:
…なんてことを考えているわけですが、玉木さん。この記事をお読みなっているお時間があるかどうか、わかりませんが…。
今このタイミングで玉木さんが、今年のダボス会議に行くというのは、ものすごく良いタイミングだと僕は思っているんです。
今年のダボス会議でも、AIをはじめとした新しいテクノロジーが大きなテーマの一つになっています。まさに、AIが人間の潜在力の発展を手助けする存在となるか、あるいは人間の潜在力を代替し、その発揮と発展の機会を奪う存在となるか、その分水嶺を時代は迎えようとしています。
やはりキーワードは「人の潜在力」です。
このキーワードを頭の片隅に入れておいてもらえると、もしかすると、面白い何かが見つかるんじゃないかなあ…と。玉木さんの、国民民主党の政策観にバチっとハマる何かがです。
なんとなく、そんな気がしています。
というわけで、以上です。
玉木一兵卒、ダボス会議がんばって!