「ゆるしのために踊れるなら・・・」ブルガリア公演が決定しました!
アトモストをご支援してくださっているみなさま、こんにちは。今日は珍しくアイリではなく、私、サムエルがニュースレターの記事を担当させて頂き妻のダンス作品を通して考えている事柄を皆さんとシェアさせて頂きたいと思っています。
先週、怒涛の関東ツアーに家族と行っていたばかりなのに福岡に帰って3日間の後、また6日間の出張で一人東京へ旅立ちました。その間妻はリハーサルをしながら子供たちのワンオペ育児をしています。そして、私が帰ったら今度はバトンタッチして、翌日から妻が2週間ほどダンス作品発表のためにブルガリア🇧🇬へ行くことになっています。
先月から続く旅でハードなスケジュールですが、好きなことを好きなだけ神様にやらせていただいているので、何一つ文句はありません。むしろ、今回車で駅まで送ってくれた妻とも話していましたが、本当にこうして二人で作品を制作したり、家族との時間をしっかり持ちながら仕事ができる環境が与えられていることに改めて感謝です。
早めに福岡空港に着いたので、ラウンジを満喫しながらしばらくコーヒーを飲んでいましたが、車で話していた妻の作品のことが頭から離れませんでした。
「あなたにはゆるせていないこと、ゆるしてほしいことはありますか?」
“Do you have something you cannot forgive or something you would like to be forgiven for?”
4年前に「ゆるし」をテーマにした妻の1時間のソロダンス作品が、今年ブルガリア🇧🇬のソフィアで開催される国際シアターフェスティバルに選ばれました。10月18日に100人ほどの観客の前で再演されることになりました。当日観客一人一人に渡される封筒があり、その中にこの問いかけが書いてあります。(公演の内容ですが、許可を得たのでネタバレしています。)
人類の歴史で、これ以上大きく、深く、重い身近なテーマがあるだろうか。と考えていました。
この大きなテーマで作品の創作をしようというきっかけは、9年ほど前に遡ります。新婚旅行の一環として参加していた「ヨーロッパキリスト者の集い」で村岡先生という方に出会いました。村岡先生は、イスラエルの独立戦争の真っ最中にヘブライ大学で学んだり、マンチェスター大学、ライデン大学でオランダ語でヘブライ語などを教えるほどすごい学歴の先生です。彼が翻訳した「折られた花―日本軍の「慰安婦」とされたオランダ人女性たちの声」を読んた妻が、この集会で先生ご夫妻との交わりを深めながら慰安婦問題に興味を持ち始めたのが今回の作品まで展開していったのです。
再演する作品のタイトルは、「So I Dance For Forgiveness」訳すと「ゆるしのために踊れるなら…」になります。この作品は、「折られた花」に感銘を受け、リサーチを深めた時、他のオランダ人慰安婦の一人であったジャンさんと言う方が書いた手記「Fifty years of silence」をベースにしています。
ジャンさんは、自分に起こった過去の出来事を神によってゆるすことができたと本に書きました。本当の意味での「ゆるし」は神にしかできないと示した彼女の言葉に妻は重みを感じたでしょう。そして、膨大なテーマを妻は長い時間と努力をかけ切り崩し、自分にとって「ゆるすこと」「ゆるされること」の意味は何かと探りました。それはそばで手伝いながら見ていると苦しくて地味な作業でした。彼女自身の過去の経験を思い起こし、自分が傷つけられた出来事や傷つけた出来事に、究極的には切なる祈りでしか表現できないであろう体と心のうめきを作品に吹き込めていましたから。
作品の一番最後のシーンにジャンさんの自声でオランダ語聖書の詩篇を読む音が流れます。実は、4年前にこの作品の創作に取り組んでいた際、ジャンさんのお孫さんであるRubbyさんと妻は、妻がSNSでこの作品に対しての情報を発信していたことで繋がり知り合いました。そこから何度かやりとりをしながら病院のベットで最期の時を過ごされていたジャンさんがわざわざ妻のリクエストである詩篇の朗読(著書の中で詩篇を朗読していたという記述があった)し、作品のために録音してくれたものをRubbyさんが送ってくれたのです。ジャンさんはそれから半年後、2019年の夏に亡くなりました。今思えば、奇跡のような貴重な宝物で、聞くたびにその重みを感じられます。
ジャンさんの声は気力が薄れて行く老人の声でありながらも、確信と信仰に満ちたる祈りでした。そして、暗黒の中切なく踊り続けるしかできないひとりの人間の思いは祈りへと、神への礼拝へと変えられて行きます。
ルカの福音書5書にゆるしに関する非常に興味深い話があります。
ある中風をわずらっている人を4人の友人たちが床に載せてイエスさまのところに運ぼうとしていました。当時直せないと思われた病気でしたが、イエスさまならきっと治してくれると信じたでしょう。ただ、多くの群衆に囲まれたイエスのところには行くすべがなかったため、イエスがいる場所の屋根を破り、イエスの前に彼をつり降ろしたのです。
当時イエスさまを殺そうとチャンスを伺っていた律法学者のパリサイ人たちを含め多くの群衆が見ている中、イエスさまはその病人にこう語りました。
「友よ、あなたの罪は赦されました」
この言葉の後、イエスさまは彼の病気を本当に癒す奇跡を行いましたが、この言葉にパリサイ人たちは神への冒涜だと怒りを表すことになります。なぜなら、罪の赦しは神にしか出来ないことを律法学者たちである彼らはよく知っていたのです。
被害者であっても、加害者であっても、人間はみんな悪と善を選択できる自由意志が与えられています。ですから、完璧な悪人も、善人もない。私たちは、みんな、ゆるして、ゆるされる必要がある被造物である中、イエスさまは人間が持つ根本的な罪に対して赦す権威があることをこの言葉を通して宣言されました。
つまり、イエスのメシア宣言になります。イエスご自身が神であることを明らかにする場面です。
この作品を通して、妻は「ゆるし」の根本的な解決は人間にはできないことを問いかけているかも知れません。「ゆるし」は神の領域であることを彼女は告白しています。
ですから、自分にできることは「So I Dance for Forgiveness」「ゆるしのために踊れるなら…」
だと表現しているかも知れません。踊れるもんなら踊りますけど、そういうことじゃ解決しないんですよね、、、、という事なのかもしれません。
日本語ではゆるすという言葉には二つの漢字があります。許すと赦すです。前者は自分が人をゆるせるか?という時によく使いますし、後者は神に対しての罪の赦しの時に使う言葉です。そのため、本作ではわざとひらがなで表記しています。両方の意味で問うているからなのだと思います。
罪の赦しから、心の癒しも、体の癒しも始めるとイエスさまは語っておられます。
個人的には今後この作品更に用いられ、オランダでも、インドネシアでも、韓国でも多くの言語に訳され再演の道が開かれ、多くの方々が自分の過去のできことと、罪のゆるしに関して考える機会となりますうように心からお祈りしています。