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【舞台の感想】スタニスラフスキーの家のそばの劇場『桜の園』:ユーリー・ポグレブニチュコ演出

モスクワ滞在中にどうしても見たかった舞台の一つ。こちらも巡り合わせがよく観劇することができた。

自分たちの作品の準備のあいまを縫って、チケットを買いに劇場を訪れると、だいぶ劇場は様変わりし、洗練された佇まいになっていた。ところが、チケット売り場のブースには誰もいない。窓口には、20分休憩しますという置手紙。なんともロシアらしい。

しかし20分といっても、私が着いた時点で何分たっているかはわからないし、本当に20分で帰ってくるかもわからない。劇場のクロークに若い女性がいるが、待っている私に気が付いても、スマホをいじっていた。自分の担当ではない仕事はしない、という強い姿勢が伝わってくる(ただめんどくさいだけだろうけど)。
 だいぶ様変わりしたモスクワで、何かしら懐かしい気持ちで灼熱の日差しをチケット売り場の前で10分ほど待っていると、だいぶ年配のおじいちゃんが入ってきた。俳優さんだろうか、と思っていると劇場に入り、そのままチケット売り場の椅子に座った。どうやらこの人が担当らしい。早速、希望のチケットと枚数を伝える。手元にある客席が印刷された紙を見て、空き席か確認してパソコンの画面でも確認する。ところが、この動作すべてがゆっくりで、パソコンはダブルクリックも怪しい感じ。ひとつひとつどうにかパソコンで席を選択していると、劇場からちょい悪オヤジっぽい裏方らしい男がやって来て、動作が遅いことにちょっかいを出して、おじいさんに追い出された。なんとも演劇を見る前から、ちょっとした寸劇を見ている気分。

 こうしてチケットを受け取って見た舞台は、ポグレブニチュコらしい静かで、笑えて、そしてどこか憂いのある作品だった。

 登場人物は基本的に客席の方を向いて語り、話している相手の方は見ない。そして、台詞ははっきりとゆっくり丁寧に語られる。その静けさがよりポグレブニチュコが組み替えた台詞と場面の滑稽さを強調する。

また、これもポグレブニチュコがよく使う手法だが、登場人物は見た目だけでは誰だか判断はできない。今回も案の定アーニャに見える少し年を重ねた女性はラネーフスカヤで、一番若い女性がラネーフスカヤであった。ペーチャは大ベテランのアレクセイ・レヴィンスキーだ。相変わらず力が入っているのか、入っていないのか分からない、しかし味のある演技をしていた。

今回の演出ではロパーヒンは悪役として解釈されており、商人としてのアコギさや、通りすがりの男を川に投げ捨てるなど、だいぶ荒っぽい人物として扱われていた。私はこの解釈に賛成ではないが、演出に一貫性があり、場面の組み換えとセリフが彼のそうした性格を強調し、また喜劇的に作り替えられていた。

例えば、ロパーヒンが通りすがりの男を川に投げ捨てた(舞台裏で音のみで表現される)あと、ラネーフスカヤはワーリャに、あなたたちの婚礼を決めましたよと言うのである。その後のワーリャの「冗談を言わないで」という台詞の意味がまったく別のものになり、客席からは笑い声が漏れた。

その他、作品を組み替えると言っても、時間軸の変更はポグレブニチュコが行ったところは私は見たことがない。今回も物語に流れる時間はそのまま保持されていた。

また第2幕では、私が翻訳した初校版にあるシャルロッタとフィールスの場面が使われていたのが特徴的だった。

休憩のあと第3幕が始まると、観客たちはいったい何事かと思わされる事態に出くわす。黒い服を着た男たちがハムレットを始めるのである。ポローニアスとハムレットの場面、ハムレットがゴンゴーザ殺しの演出をする場面、ローゼンクランツとギルデスターンの登場など、そういった場面を下手の端で体育座りをしたラネーフスカヤと共に観客たちは見ることになる。

そして、黒い男たちの一人がヤーシャに戻って、ラネーフスカヤにパリに自分もつれていって欲しいと懇願する場面で再び『桜の園』に話が戻る。『桜の園』を売られたこと、ロパーヒンが買ったことが明らかにされる場面が始まり、第4幕へと通じていく。

最後、取り残されたフィールスは段ボールのベッドに横たわって台詞を語る。まるでホームレスのように、突然現代化され舞台は幕が下りる。

ポグレブニチュコはまるでレコードを取り換えるDJのように、桜の園とハムレットを行き来させ、場面と場面、台詞と台詞を繋げ合わせ、新しい意味を作り出す。

残念なのは、ポグレブニチュコの演出でよく用いられるロシアの歌謡曲が分からないことだ。エピホードフやトロフィーモフは劇中で歌を歌うのだが、その歌はロシアの人たちにとって馴染み深く、何かしらの意味を持つのだろう。



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