未完の肖像画を描き続けるということ − 『戦争は女の顔をしていない』評
スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチによる『戦争は女の顔をしていない』(三浦みどり訳・岩波現代文庫)および同書を原作とした小梅けいとの漫画『戦争は女の顔をしていない』に関して、西洋史学を専攻するメンバーの力のこもったエッセイをお届けします。
なお、今回より記事のヘッダー画像を建築学科の方に依頼しています。この文章のための描き下ろしですので、合わせてお楽しみください。
©︎2020 Yuri Shu
(Instagram) https://www.instagram.com/shumame_/
1、戦争の「顔」
『戦争は女の顔をしていない』はスヴェトラーナ・アレクシェーヴィチが独ソ戦に従軍した赤軍あるいはパルチザンの女性兵士たちへの聞き取りをもとに、それまで表立って語られることのなかった側面から独ソ戦を描き出そうとした作品である。
アレクシェーヴィチが綴るような女性兵士の戦争そして戦後の経験は、戦後のソ連のなかで長い間抑圧され忘却されてきた。それには、ファシズムに対する勝利を強調する体制の公式史観のもとで、兵士の英雄的な振る舞いが強調されると同時に、軍事的な動静を基調としたマクロな観点での戦争記述が重視されてきたことが影響している。
また、本書の中でも繰り返し述べられているように、従軍女性に対する社会の偏見が大きく、当事者たちの語りが阻まれたことも、戦争の記述を一面的なものとすることに拍車をかけた。従軍した女性たちとその体験は、体制の称揚する「鉄筋コンクリートでできた記念碑のような」(岩波現代文庫版p.7)歴史記述と記憶のもとで、発話の機会を奪われた物語として沈潜させられ続けてきたといえる。
このような忘却を伴う「記憶」についてはすでに多くの学術的研究の蓄積があるが、それについて語ることは本書の綴られた目的を考えたときに必要なものとは言い切れない。なぜならば、本書の目的は、忘却のメカニズムや忘却されてきたものを含めた止揚としての歴史記述を語ることよりも、忘却されてきたものそのものを可能な限り書き留めようとすることにあるように感じられるからだ。
従来語られてきた戦争は、本書のタイトルにもなっているように、「女の顔をしていな」かった。女性たちが経験した戦争の「顔」は初めからなかったものであるかのように描かれてこなかった。それはつまり、戦争の「肖像画」は不完全な形でしか描かれてこなかったということであるし、「女の顔」の裏返しとしての「男の顔」も欠落を孕んだ描き方しかされてこなかったということでもある。
2、描かれる「顔」
アレクシェーヴィチの叙述はそれまでのっぺらぼうのごとく茫漠としていた戦争の「肖像画」に精緻に筆を入れていく作業のようである。そこで意識されているのは、記述されるものが歴史的事実として正確かどうか、あるいは倫理として正しいかどうかではない。一人ひとりの人間の「色」を丹念に塗り重ねていこうとするアレクシェーヴィチの筆からは、とにかく網羅的に、どんな色であっても塗りこみ忘れてはならないという彼女の信念、もとい執念を感じられる。
それゆえ、彼女のこの著作は、初めから終わりまで、一言一句漏らすことなく読むよう、読者に強く訴える力を持っている。途中で読み止めるな、必ず最後まで読め。なぜならこれは戦争の「肖像画」であり、どの色も欠けてはならないのだから。アレクシェーヴィチはその筆致の裏にそういった強いメッセージを込めている。
そして一方で、アレクシェーヴィチ自身が書いているようにこの本は完結していない。まだ書き足すことはあるし、綴られた文章たちも書き足されることを欲している。戦争の「肖像画」には、まだ色が塗られていないところがたくさんある。もしかすると、いまだにデッサンすら描かれていないところもあるのかもしれない。あるいは、描かれたデッサンが間違っているところも。
そのことは本書の価値を減じるものではない。経験の語りつくせなさ、綴り切れなさ、描き切れなさとはすなわちそこにいた人間の多様性であり、本書の叙述が含む豊かさの淵源であるからだ。それを開かれた形で、区切ることなく、ここから先も付け加えることが可能であるような形で記録に残した筆者の試みは、それが未完であったとしても、いや未完であるからこそ、価値あるものとして評価されるべきだろう。
そして同時に、綴られる事柄は全て、単なる「女性ゆえの悲劇」として受容されるべきものでもない。そのように従軍した女性たちの経験を捉えることは、戦場では「女」として扱われ、戦後の社会では「女ではないもの」あるいは「劣った女」として扱われた彼女たちの経験を半分に切り落としてしまうことになるからだ。
その経験は暗い過去ではあるが汚点ではなく、かといって美点でも、当然ない。いろいろな価値と記憶と個人の軸の間で引き裂かれながら、宙づりになっている。それは、アレクシェーヴィチの描く戦争の「肖像画」が未完であるがゆえに開かれているのと同じような「曖昧さ」がうつしだす確固とした「現実」の像である。きっとその「宙づりさ」をそのままに受け取ることが、読者に求められていることなのだろう。
3、新しい「顔」
このアレクシェーヴィチの作品が最近、小梅けいとの手によってコミカライズされた。女性たちの言葉をそのままに聞き取ったアレクシェーヴィチの飾り気のない叙述は、漫画家の手によってその余白を解釈され、「絵」に落とし込まれる。その解釈は、豊かであり柔らかい。
戦争の「肖像画」は「漫画」という新しい身体を獲得してまた別のダンスを始める。それは、「肖像画」の空白に色が塗られていく過程のようでもあるし、すでに塗られたところに新たに色が重ねられていくのを見るようでもある。
アレクシェーヴィチの原作を下敷きにして描かれた小梅の漫画は、アレクシェーヴィチの描いたものの曖昧さや「宙づりさ」と噛み合いつつ、それとはまた異なった方向性を「肖像画」に与えていく。そこには、女性たちの言葉のある種の毀損があり、ある種の深化がある。漫画という図像的な媒体によって新しく語りなおされる女性たちの言葉は、良くも悪くも従来とは違った姿を我々の前に見せる。
描かれる人間が、情景が、強烈な迫力を持って我々に迫ってくる。一方で、アレクシェーヴィチが女性たちの言葉を取り戻し、語らせようとしたその努力と、それが必要とされる社会の構造の歪みに対する告発はやや後景に退く。
この事実は、看過してはならないものなのかもしれない。アレクシェーヴィチの記述の劇的な面を強調することは、女性たちの言葉を表層的な「戦争の惨禍」の一部に還元させ、それが生まれた構造に対する巨視的な洞察を希薄にする。
それでもこのコミカライズは、女性たちの語った言葉を伝える媒体としては、原作とは違った比重の置き方をした表現をもたらす有用なものであると思う。監修にあたった速水螺旋人が書いていたように、コマとコマの間を、描かれたもの・綴られたことの背景を、想像力を豊かにし、時には別の文献で補完して読んでいくことにより、我々はより複雑で正確な視座に到達できる。単に歴史的な事柄を題材とした漫画というだけではない、重厚な文脈を持つ本作は、我々に過去に向き合う覚悟を持つよう迫ってくるものと言えるだろう。
そしてまた、漫画という図像情報を主体としたメディアにアレクシェーヴィチの叙述を落とし込むことには、多くの困難が伴ったと推測される。なにより、漫画には人間が描かれる以上、そこには表情が描かれる必要がどうしても出てくる。語られている経験の複雑さを踏まえたとき、その困難さは想像するに余りある。
しかし小梅は、兵士たちの表情を臆することなく豊かに描ききっている。もちろんここで描写されているものが真実であったかはわからないし、おそらくそうではないものも多いことだろう。しかしながら、戦争とその奥にある人間を描かんとする本作において、小梅の描写は「正解」の1つであるように思われる。
アレクシェーヴィチの原作と小梅のコミカライズは、両者を併せて読むことによって、我々を深く、現実以上に精緻な戦争の「肖像画」の中に誘ってくれることだろう。そこにおいて我々も、語られねばならないことが語られる場に巻き込まれ、それを記憶し伝える営みの一部となる。我々は現実に起きたことに無関係には生きられないのだから。
(追記)冒頭にも記されているが今回の記事には周さんが素敵なヘッダーのイラストを付けてくださった。この場を借りて感謝を申し上げるとともに、このイラストから広がるものによって戦争の「肖像画」がより豊かなものとなっていくであろうことを、期待を込めた予想として最後に記しておきたい。
(M)