名工の迷宮
掌編『都を追放された名工が迷宮を作らされた話』https://shimonomori.art.blog/2021/06/11/labyrinth/
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松明ひとつの暗がりの中、
螺旋階段をゆっくりと登る。先は長い。
「イケレス。
この蝋を回収するのを忘れるな。」
牡牛の頭を模した燭台に
残った蜜蝋を松明で照らし、
息子に回収を命じた。
松明の光に当てられ
息子、イケレスの顔が暗闇から浮かぶ。
こやつはわしとは顔立ちが異なる。
大きな鼻が特徴で、
横長の鼻の穴と鼻筋が短く、
唇は母親に似て分厚い。
わしの妻であり、イケレスの母親も肌が赤黒い。
彼女は西から来た奴隷の中でも艶冶だった。
「いったいどれほど回収なさるおつもりですか?」
イケレスが泣き言めいたことを漏らす。
数え年でまだ16の若者だ。
心細くなるのも無理はない。
目が大きく、母親そっくりの美貌を持つ。
美醜も分からぬ島の田舎者たちには、
怪物同然に扱われる哀れな子だ。
だがいまはこんな場所で、
息子から泣き言ばかり聞かされるつもりもない。
「全部だ。
50パークス(約25m)上まで。」
「全部…、この長い夜が明けてしまいます。」
「構わんよ。」
「わたしだけならまだしも、
なぜ父上がこんな目に…。」
「マイナス王のやりそうなことだ。」
わしは忌々しく吐いた。
全ての原因はこのクィート島の王、
マイナスにあった。
「かの王は苦手です。」
「あぁ、イヤな男だ。
だがそうでもなければ、
お前も産まれやしなかっただろう。」
はるか西方から連れてこられたイケレスの母親は、
マイナス王の奴隷だった。
「父上はどうして母と知り合ったのですか?」
「話したことはなかったか。」
わしはヒゲに触れ、輝かしい過去を思い出した。
「このわしデドラスが、
エティナィいちの名工と
その名を轟かせていたのも、
かれこれ30年以上も昔になるな。」
「エティナィというと…半島の都ですか。
父上はエティナィの人間だったんですね。」
エティナィのあるペロポニーセス半島は
クィート島の北北西に位置している。
産まれて一度も島を出たことのないイケレスは
驚き、大きな目を輝かせた。
わしはクィート島に住む人間とは異にし、
奴隷の母を持つイケレスの顔は、
ミノア人ばかりの島民とは明らかに違った。
想像した通りの反応に、わしは鼻で笑う。
「なぜクィート島に来たのですか?」
「わしは都を追われこの島に逃れたのだ。」
思い返せば不快極まりない事件だった。
「わしにはタレスという弟子がおった。
弟子とその父親がわしの技術を盗み、
わしは都を追い出されたのだ。」
服をめくり、右肩に付けられた焼き印を見せた。
歩く鳥の姿が描かれた痕に、
イケレスにもすぐ分かっただろう。
「これは、ヤマウズラですか。」
「うむ。エティナィを追われ、
行き着いた先がクィートの王だった。」
クィート島に全長27スタディオン(約5km)、
幅は最大16スタディオン(約3km)にも達する
巨大なノッセス宮殿を築き上げたマイナス王は、
多島海の支配者となった。
「かれの擁立を受けたわしは、
海軍の造船に関わり、
王女のための舞踏場も建造した。」
「エリアドニさまですね。」
螺旋階段を少し登っては、
イケレスに蝋を回収させるために足を止める。
こびりついた蝋を爪で引き剥がし、
集めたものを団子にする。
息子の言う通り、夜が明ける作業だ。
「王妃にな。」
「はい。」
わしはヒゲをなでて、
理不尽にも幽閉された息子を思い、
理由をしゃべるべきか少しばかりためらった。
「わしは王妃の不貞を手伝ったことがある。」
「なんですって?」
「手を止めるな。
知らなかったのだ。これは不可抗力だ。
わしは流れ者。王妃の命には逆らえん。」
思い返せばおかしな依頼だった。
不憫なイケレスの反応が面白いので、
わしも冗舌になった。
「ペサイデンは知っておるか?」
「たしか、かの王の叔父にあたる方でしょう。」
「そのペサイデンのバカ息子がな、
わしの母上をはずかしめたので
母の母、祖母がそのバカ息子を
撲殺したんじゃ。」
思い出して腸が煮えくり返る思いと同時に、
笑いが込み上げてくるのをこらえた。
「裁判の末に祖母の正当性が認められたが、
どういうわけか孫にわしにも
かのペサイデンとは因縁が深いらしい。
先王亡き後、長男だったマイナスは
ペサイデンと契約して、王位を狙った
末弟を北東にある山岳地の
ルッカに追いやり、この国の王となった。」
「契約?」
「あぁ。自分を神と名乗る父親の兄だ。
兄弟似た者同士と呼ぶべきかね。
王位をついだしばらく後で
供物を渋ったマイナス王に怒り、
ペサイデンは王妃を色で釣ったのよ。」
「色…?
それが父上への依頼になにか関係が?」
「王妃がマイナス王にバレずに、
ペサイデンとまぐわうための道具。
わしは冗談のつもりで作ったのだがな。」
牡牛の頭を模した燭台を松明で照らす。
「それがまさか、
人が入れる牛の彫像などとはな。
がはっ!」
こらえきれずに笑ってしまった。
「なんたることを…。ぶふっ!」
イケレスも想像して笑った。
王妃が牛の彫像に入り、
さらにペサイデンが牛の彫像と
性行為をする話など、こんな場以外で
絶対に口外できない笑い話だ。
「ここは王妃の不貞でできた息子、
将軍への功績としてマイナス王が
わしに作らせた塔だ。」
「なんと。将軍の為の?」
「マイナス王はわしにこう言った。
『入ったものを出られなくする迷宮を作れ。』
と。」
「迷宮? ここは迷宮だったのですか?」
イケレスが驚くのも無理はない。
外見は明らかに塔であり、
今ふたりで登っている最中の建造物だ。
「迷宮などバカバカしい。
二度と出られなぬ迷宮など、
冥府同然の場所など誰が入りたがる。
ヒディーズぐらいのもんか。」
マイナス王の父親兄弟の長兄の名を挙げた。
神を名乗って暴れまわる弟ふたりに比べて、
女の扱いに不慣れで話題の乏しい長男だ。
「おっしゃるとおりですが、父上。
わたし達はいまその胃袋の中にいるのですよ。」
「胃袋か。面白いことを言いおるわ。
ならわしらは塔の口から入ったことになるぞ。
逆立ちした塔の肛門に向かってな。」
「笑いごとではありますまい。
はやくその…口に戻って出ましょう。」
「出られるはずがないのは、
お前も分かっているだろう。」
入ったものを何人も出さない入り口は、
外から10頭もの牡牛で吊り上げる重厚な扉だ。
内側からは手動巻上機を利用すれば、
同じく扉を開けることが可能、と見せかけた。
将軍が欲しがるように、
堅牢な物見塔としての魅力を持たせた。
外側の扉が閉じる力で、内部に弁となっている
大理石の壁も少し遅れてせり上がる。
持ち上がった石壁は歯車によって
時間をかけてゆっくりと降り、
2重の扉で侵入者を飲み込む。
石壁が降りる様子は、
わしとともにイケレスも見ていた。
「褒美にしても、なぜこのようなものを。」
「それはわしが作った完璧な迷宮だからだ。
わしらを入れたマイナス王も、今頃は
さぞ安堵しておるじゃろう。」
マイナス王の喜ぶ顔を思い浮かべて、
わしは笑った。
「将軍は騙されてこの迷宮に入れられた。
出る為の手動巻上機が機能しないことに気づき、
怒った将軍は従者や奴隷をなぶり殺しにして、
牡牛を食い、女たちを陵辱したという。
毎日のように悲鳴が響いたそうだ。」
「そうだ。思い出しました。
英雄ティースゥスが将軍を倒したという話を。
彼はこの迷宮を出られたのですよね。」
「うむ。脱出方法を
王女に尋ねられたからな。
教えぬわけにはいかなかった。」
「して、どのように?」
「蝋は集め終わったか?」
「はい。」
「では上に行こう。」
イケレスの予想の通り、
夜は明けてクィート島よりも先に
朝日が塔の頂上を照らした。
螺旋階段を登りきった塔の頂上には
屋根をこしらえており、北を見れば
多島海の青が視界に広がった。
しかし足元は鳥の巣とフン、
それから猛禽が食い散らかした跡がある。
「落ちたらひとたまりもありません。」
50パークス(約25m)もある大理石の建造物など、
将軍や英雄であっても落ちれば死ぬであろう。
塔の麓の暗闇で死を待つか、
飛び降りて死を受け入れるか。
朝日を浴びたイケレスの顔がはっきりと見える。
「あった。これだ。」
頂上の足元に鉄製の環が、
モルタルで半分埋まっており
そこには焼け焦げた縄が伸びている。
「英雄ティースゥスが将軍の討伐を
志願した時、王女がヤツに一目惚れしおった。
将軍を倒した後で、弓兵を使って
頂上にいるティースゥスに縄を届けた。
迷宮ではあるが、外部からの手助けなら
逃げられるのだ。」
「しかし、縄も燃やされてしまいました。
父上、わたし達には弓兵の協力者も、
地面にまで届く縄も持ち込んでいません。」
「不完全な迷宮を作ったことで
マイナス王の不興を買い、
わしらも入れられたというわけだ。がははっ。」
「なにをのん気なことをおっしゃいます。
作ったのは父上ではありませんか。」
「迷宮を迷宮であると証明するには、
作ったものが王命により迷宮に入れられ、
真に出られないか証明させられることは
もとより想定しておったわ。」
「ですがその脱出経路はもうこの通り。」
イケレスが燃え焦げて
短くなった縄の先をつまみ上げた。
「外部からの手助けがないとなれば、
最後はそいつを使う。」
わしはイケレスの足元に置かれた
蜜蝋の団子を指で示した。
日の光で溶けた蝋に、羽が付いている。
さらにひと晩かけて
蓄積した鳥の骨と羽を拾い集め、
ふたりでふた組の大きな翼を作り上げた。
イケレスの服を帯にしてその翼を背負わせる。
「恐ろしい。これで本当に飛べるのですか?」
下を覗き込んだイケレスが塔の高さに立ちすくむ。
「わしの腕を疑うのか。
エティナィに名を轟かせた名工だぞ。」
「昔話はもう聞きました。父うぇ?」
「ならさっさと行けい!」
いつまでも膝を震わせる
イケレスの背中を押して塔を突き落とした。
忌々しい右肩の焼き印が視界に入る。
イケレスは叫び声と同時に塔の周囲を器用に飛び、
不安などどこかへ消えて笑い声を上げた。
「すごいですよ! 父上!」
わしはイケレスに向けて東を指さした。
「イケレス! ルッカに向かうでない。」
ルッカは王弟が島を追われて逃げ延びた山岳地だ。
だがイケレスはわしの忠告を無視するどころか、
勘違いして東側へと飛んでいった。
イケレスは島を出たことがないので、
はしゃいで自由に島の上空を飛び回った。
そこへ朝がやってきた。
イケレスの背負った
羽を蜜蝋で薄く貼り付けただけの翼など、
朝日を浴びれば火炙りにされたも同然であった。
「なんてことだ。」
イケレスの翼の羽はみるみると抜け、
滑空していき地に落ちた。
クィートの兵らが声に気づいて塔に集まり、
イケレスは再び捕まった。
息子を助けようにも日光がそれをさえぎる。
弓兵が来て撃ち落とされる前に
わしは塔の影から北西へと飛び立ち、
クィート島を離れた。
はるか北西にあるシソイア島まで飛んだ。
そこでカミコスの王、コカロスに迎えられ、
この王の元でしばらく働くこととなった。
エティナィの名工、デドラスの名は
こんな僻地まで届いていた。
わしを逃したマイナス王は、
将軍が不貞で生まれたという
出生の秘密を守るべく必死だった。
マイナスは海軍を率いて
遠路はるばるやってきて、
コカロス王と面会をした。
わしを手放したくないコカロス王だが、
敵対するのも不味いと判断して長旅を労い、
親交を結ぶべくマイナスを風呂に案内した。
裸のマイナスに、
わしは彼に煮えた湯を浴びせて殺害した。
地べたでもがき苦しむ王を見下し、
わしの笑い声が風呂場に響いた。
王を失った海軍は報復に出ることもなく、
あっさりと引き返していった。
マイナス王の力はあくまで父親のゼウスと、
契約したその兄のペサイデンから
後ろ盾を得ていたに過ぎない。
しかしマイナス王が斃れたところで、
息子イケレスの救出は果たせなかった。
捕らえられた息子のいるクィート島には
怪物が存在する。
怪物は空を飛び、
近づく船に石を投げて破壊するため
上陸さえもできなかった。
翼をもったその怪物の名前はタレスという。
イケレスと離別した塔で突き飛ばした時、
弟子タレスをエティナィの城市から
突き落として殺害した記憶が鮮明に蘇った。
記憶とともに、右肩の焼き印が熱を発した。