短編『私は人を殺しました。』
「私は人を殺しました。」
被疑者とされる男、Kは
ある日の夜、交番に出頭をした。
中年の巡査長によって
聴取は深夜に行われた。
Kは交番の隣近所にある
病院に勤める医療スタッフであった。
Kは仕事着にしている上下紺色の
スクラブ姿で交番に駆け込んだ。
その時の巡査は制服を着崩し、
机に頬杖をついたままうたた寝していた。
Kは自らの罪を告白した。
3年間で64人を殺害した、と――。
巡査長による『メモ書きの調書』に、
ミミズののたくった字でそう記されていた。
深夜の来訪者におかしな言動は
交番には付きものである。
酔っぱらいも多い。
しかしKの胸元には
病院の名札が付いていたので、
この時は巡査長も半信半疑で対応した。
青白い顔のKは頬の骨が出るほど
ひどくやせ細り、目の下には濃い隈。
Kはまだ30歳過ぎという齢にも関わらず
白髪が多く、顔には皺が深く刻まれて老け込み、
巡査長よりも一回りも年上のようでもあった。
名札に貼られた写真とは異なる容姿に、
Kを『医者の不養生』と呼ぶには
見るからに度を越していた。
Kの勤める病院は、遺体を搬出するための
霊柩車が頻繁に止まるので、
地元の人間には霊柩車病院とも呼ばれた。
死因について不可解ではあったものの、
病理解剖の結果、医療過誤と断定できる
証拠は一切見当たらなかった。
被害者の年齢や性別、病状が異なれば、
担当の科と医師や看護師、対応さえも含めて
接点が乏しく、事件性はないものとされた。
Kが殺害したとする64人の被害者はすべて、
回復の望めない重篤の患者であった。
ガン、災害や事故の重傷者などの肉体的な苦痛や、
老衰、アルツハイマー、急性疾患などの
精神的な苦痛からの解放を望んだ患者を
主な対象にした、と供述している。
なにより殺害したとする手法に、
巡査長は思いがけず赤く色づいた鼻で笑った。
Kは患者を遠く離れた場所から殺せることができた。
患者を夢の中で殺害した私は死神だ、とKは言った。
Kは夢の中で苦痛にもだえる患者に会い、
横たわる彼らの腕に筋弛緩薬を注入する。
夢の中では望んだ物が何でも手に入る。
朝になっても患者は眠りから目を覚ますことなく、
死亡する。
夢の中で死んだと思う者は、
二度と目を覚ますことはない。
どんな患者でも苦痛から解放することができる。
夢の中でKは常に患者たちから感謝された。
殺意はなく、善意による医療行為だと主張した。
そんなKは自らの行為に対して死罪を求めた。
巡査長はあまりに荒唐無稽な話の内容に、
いたずらと確信して調書を取る手を止めた。
Kの発言には誰が対応したところで
同じ様に疑ったであろうが、
この巡査長にはいくつか問題があった。
後に判明したことであるが、
この巡査長は勤務中にも関わらず
夜な夜な隠れて酒を飲んでいた。
そしてこの時の『メモ書きの調書』は、
丸め捨てられゴミ箱の影に隠れていた。
被疑者のK宅にあった手記には、
巡査長の酒臭さを述懐すると共に
自首に至った経緯が記されている。
Kは最後の被害者となった少年の
担当スタッフであった。
少年はKが転勤した頃からの入院患者で、
重篤化して回復の見込みがない為に
いつもどおり犯行に及んだ。
いつもどおりであったはずが、
Kは夢の中で患者の遺族に遭遇した。
夢の中の遺族は、目の前で少年を殺したKに対し
罵声を浴びせることも感謝することもなかった。
長い闘病生活は病に苦しむ患者だけではなく
入院を支えていた家族も解放される。
入院生活が長ければ長いほど、
患者の症状が重くなればなるほどに、
医療費は雪だるま式に膨れ上がる。
そんな少年の死に遺族はあろうことか、
諸手を挙げて喜んだ。
遺族の喜びが、直接少年の遺体にまで向けられた。
夢の中であっても遺族に喜ばれたことに、
Kはひどく心を痛めた。
目を覚ますと痩せこけて黒髪は色を失い、
老けた自分の顔が鏡に写った。
Kは自らの変わり果てた姿に
おぞましくなり自首をした。
だが巡査長は一連の話を一切真に受けなかった。
それは医療関係者がよく罹る、
仕事のノイローゼの一種だと思われていた。
精神的な苦痛で容姿の変貌したKを
同僚たちは哀れんで慰めた。
酒を飲んで酔っていた巡査長も同様に、
Kの話を笑うだけで交番を追い出した。
Kの手記には続きがあった。
信憑性に欠ける話を部外者である巡査長が
相手にすることは無かった。
切羽詰まって犯行を自供したKであったが
それを証明できない以上、Kの犯行は
酔っぱらいの巡査長に笑われて終わりだった。
Kはそれから考え直し、
ふらつく足取りで自宅アパートに帰ると
新たなターゲットをひとり絞った。
その相手は年上の引きこもりで、
元は医師であったKの兄であった。
Kの兄は過去に起こした医療過誤により、
マスメディアに家族ごと追い回される
大事態へとなった。
それは刑事事件にまで発展し
Kの兄は逮捕、起訴された。
容疑は否認し続けている。
またこの事件に端を発して、
医療社会に大きな雪崩が起きた。
民事裁判で請求された慰謝料が、
多額の負債により医療訴訟での
保険制度までもを崩壊させた。
医療は萎縮し、医療保険制度の見直しに発展し、
Kの兄は疫病神とも呼ばれ、今なお服役している。
一部を国が補っていた医療費が
これからはすべて患者の負担へと変わり、
まともな治療を受けられずに死を待つ者が増えた。
当時は別の病院に医師として勤めていたKも
無関係とはならず、担当を外され病院を転々とし、
離婚した母方の姓に変えた。
医療関係者としての矜持ゆえに
Kは自首をするまで、安楽死という独善的な
医療行為を続けていた。
Kは兄を憎んでいたに違いない。
そのKが、久しぶりに兄に会った。
それは夢の中であったが、
上下灰色の囚人服を着た丸刈りの兄は、
老け込んだ弟のKに目を見開いて驚いた。
Kの兄は知らずに、手にした包丁を見た。
その包丁でKの名札ごと穿ち、胸に突き立てた。
穿通性の心臓外傷は血液や体液があふれ、
心臓が圧迫され心停止におちいる。
夢の中では望んだ物がなんでも手に入る。
包丁はKの兄が望んだものではない。
K自身が望んだ物は、自らの死であった。
Kの兄は、夢の中で死に絶える
老いたKの姿を呆然と見下ろした。
夢の中の出来事にも関わらず、
自分が何をしたのか分からないまま
その場に立ち尽くすと、突然
激しい閃光に襲われて目を閉じた。
報道のカメラがフラッシュを焚き、
シャッター音がけたたましく耳に鳴り響く。
夢の中のフラッシュは目を閉じても
瞼は意味をなさず、頭の中にまで光が侵食する。
Kの兄はそこで目を覚ます。
目を覚ましても、光り続け、
シャッター音が鳴り続けた。
光の刺激は脳への過敏性発作を起こす。
目を閉じようとも明滅は繰り返し、
頭痛に襲われて嘔吐した。
自分が居る場所が
夢の中なのか現実の独房なのか、
理解できない恐怖に身体が震えた。
シャッター音は耳を塞いでも
遮ることはできず、平衡感覚さえ失う。
あまりにも騒がしいので、
様子を見に来た看守が牢の前に現れた。
看守から見た『私』は、
頬の骨が出るほどげっそりとやせ細り、
目の下には一睡もしてないかのような濃い隈。
丸刈りの頭は雪を被ったよう真っ白で、
顔には皺が深く刻まれて老け込んでいた。
そして私は看守にこう告げた。
「私は人を殺しました。」