入院日記 2024/5/26

 木曜日、5月23日から大きな病院に入院している。その前の土曜の夜から大変に心の調子を崩してしまった。生活というのはキャッチボールに似ているのかもしれない。グローブにきちんと収まるような投球をするには、言葉で説明するよりもまず、振りだされた腕の位置、その速度、体全体とボールとの距離、キャッチャーへの目配せといった与件を、身体を通じて理解し、リラックスしながら制御している必要がある。僕は3ヶ月たっぷり費やして、ゆっくりと生活のコントロールを失っていった。気がついたらボテボテのボールしか投げられなくなっていたし、対話者の投げるボールにあわせて身体を投げ込む気力をすっかり失ってしまっていた。土曜の夜、祖父母の家に向かう電車の途中、パニックで叫びそうになるのを離人感で慰めながら、手の握る力が尽き、ボールが足元に落ちる音を聞いた。何度も乗り換えを間違えながら、辛うじて日付を跨がず到着した家のなかで、母に背中を擦られながら僕は嗚咽していた。ひとりで行動することの不可能は僕をひどく情けない気分にさせた。その後、母は僕に付きっきりで料理を作ってくれ、僕の下宿先に寝泊まりしながら世話をかけてくれた。22歳にして許されない怠慢、なんというだらしなさ、なんという情けなさ。僕は恥ずかしい気持ちでいっぱいになりながら、しかしそうはいってももうひとりでは恐ろしすぎる夜の涼風と闇に、朝の憂鬱と不安に、過去の信じがたい過失に、未来のおぞましい暗さに、耐える力など一握も残っていなかった。ひとりで対象を、景色を、未来を見つめ、そこに意味を、解釈を、希望を見つけていくことが、僕にはもう不可能になっていた。それは何か先天的な障害のように思われたし、或いはそうでないにしても、独力で覆すことなど不可能なほどに固く打ち付けられた土台として自己を構成してしまっているように思われた。すべての物事は重く動かしがたいか、空気よりも軽く指の間をすり抜けていくかの二択に従った。自分がどこに立っているのか、何をしているのか、そして現実的に何をすればいいのか、まるで航海の最中に羅針盤だけが突如消え去ってしまったみたいに、理解することが出来なくなっていた。理解できない。人間の感情も、自分のおかれた状況も、笑顔の意味も、自分に何が出来るのかも。ひとの表情の裏側に、まるで電子基板のような複雑で理解不可能な機構があって、解読しようと躍起になって露悪的で下劣な解釈を持ち出しては、そんな自分が心底嫌になって、自分を責め、捻り潰した。ものを扱うひとの指先に、言葉を操る口先に、魔法でも見せられているかのように幻惑させられ、奇跡にでも立ち会っているかのように僕の理解は萎縮した。凡そ存在するものすべてが、途方もなく巨大で、永遠に等しい忍耐強さを持ち合わせ、そしてその実、全くの無為に思われた。僕のミニマルな尺度ではどうしたって測ることのできない、そのような途方もない生活を、ひとはせいぜいが2メートルの小さな体でやってのけているように思われた。世界という巨大で物々しい脅威にたいして、それぞれがひとりきりの人々が未来を切り開き、己の生活のための空間を守り抜いていくということの信じがたい困難を前にして、僕はへなへなとへたりこんでしまった。そして起き上がることが出来ないまま、今、病院にいる。
 これだけ大袈裟に書いてみても、要するにひとに当たり前に出来ることが僕にはなぜかどうしたって出来なかったのだというだけである。そう考えると頭が痛い。もう言い訳できない状況が現実のものとなってしまった。4年間僕は妄想を続けていただけだったらしい。それがぱんと弾けて辺りを見回してみれば、無視してきた生活の煩雑な手続きが無惨にも砕け散って転がり、僕はひとりで立ち上がることすら困難で、夢は跡形もなく消え去り、目を背けずにはいられない現実に取り囲まれている。自己の内面は今まで出会った誰よりも醜く、手にした知識と知恵は誰よりも貧しく、自尊心ばかりが膨れ上がって、いつも誰かに泣きつく用意が出来ている。僕はもう、この人間を生きることが心底嫌になってしまった。僕は、僕以上に手の施しようのない人間を知らない。学びは浅く、のろい。かといって人情に厚いかというと、これが信じられないほどに薄情者であるときた。いっときの気分で調子がよいことはあるが、裏を返せば気分しだいでどんなどん底にも嵌まってしまう。気分がすべてで、それ故学ぶということを知らない。たまたま座学が人並み以上に得意だったというだけで今までいい思いをしてきたものの、少し突き放したら、まるで母親に崖から突き落とされ、足を折って憎しみに涙を流す子ライオンにでもなった気分でいる。こんなに弱い生き物を僕は知らない。あどけない少女であってさえも、意思の強さで比較したら僕は完敗してしまうだろう。今のうちはまだ僕は隠蔽に成功している。が、これが10年後、或いは20年後となれば、ひとは僕が真実の姿を見せるのを目にして、立ち去っていくに違いない。そしてそのときになっても、僕は世界の前で無に等しい悔しさを握りしめながら、もう誰も擦ってくれない背中で涙を流しているだけに違いない。
 それでも、ひとはまだ僕に期待してくれている。僕の未来を、僕よりもはっきりと見つめてくれている。僕は、僕のなかに残っているか知れない最後の良心をふりしぼって、是非ともその期待に応えたいと思う。しかし現実的な問題はあまりに暗く、重い。或いはひとが僕にかける期待の重さに比して、僕の自己イメージはあまりに軽薄で、どこ吹く風といった無関心だ。僕は、僕の人生に無関心らしい。きっとこれが最悪の障害なのだ。僕は、僕が喜んでいようと、苦しんでいようと、無関心なのだ。いったいどう言うことなのだろう?こんな矛盾が、どうして可能なのか?
 僕はもう、僕の人生の続きを見たくない。ひとの一生には、その内面の秘密が投影されるのだという。だとすれば僕の一生は、ひどく醜く悲惨なものになるに違いない。未来を考えるたび、心が鋭い刃物で傷つけられるような心地がする。僕は今までずっと、本当のことを隠すように、取り繕うように無理をして生きてきた。これからもそうし続けなければならないとしたらそれは苦しいことだし、これからもうそれすら通用しなくなるのだとしたらもっと苦しいことに違いない。
 こういったことを書き連ねていけば、何万字にもわたる巨大な自己嫌悪のリストが出来上がるだろう。そんなものはもううんざりだ。絶望的な気分ではある。希望を語ろうとして口先だけが別の生き物見たいに動き出す実感がある。ほんの少しの変更を加えるだけで、僕という人間は大きく変わるだろうという確信がある。ないのは、その少しの変更自体であるというもどかしさがある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?