イメージの思考へ、その2

 コミュニケーションがあるとき、そこには常に「風景」がある、と言えそうだ。その光景は、主に次のように形成される――まず、「他者」という黒い穴が開いた場面。その穴に吸い込まれる言葉は、最早何も意味しない。意味することが可能になる条件そのものの忘却がある。他者の顔が天井まで上昇して、幻想的な光を発することもあるかもしれない。その場合、他者の顔は純粋な意味するものになってしまっており、ひとはコード解読者となることを強いられる(超領土化)。或いは、そっぽを向いた顔。排他的な別世界を投影(project)するその顔は、現世の死滅を意味している、というように。これが裏切りの体制である。
 さらには、顔から顔の機能が剥がれ落ち、顔を断罪することもあるかもしれない(マトリックス)。顔の機能、要するに顔を超脱した「意味するもの」が、仮面のように次から次へと顔を選び取っては神経の集中した箇所に取り付けて、壮大な饗宴を開くことがある。この時、「意味するもの」は「彼ら」である。この「意味するもの」は循環構造を持っており、「彼ら」が意味するのは「彼ら」に依ってであって、その「彼ら」が意味するのはまた「彼ら」に依ってである、という風な、「彼ら」の無限後退、どんなにさかのぼっても次々に出現する「彼ら」に阻まれるような、そのような体制である。すなわち、「彼ら」の根拠は一人一人の個別的人間の集合に帰されるのだが、このそれぞれの個別的人間は既に「彼ら」を参照しているのである(クラインの壺)。
 この体制が別のすべての体制を説明する、とすることは可能だろうか?言い換えればすべてのモデルはクラインの壺のようにそれと知らず自分自身へと帰っていく運動なのだろうか?否。確かに自己自身へと帰っていく運動なしにはあらゆるモデルは成立しない。しかし同時に、あらゆるものが絶えずズレていく運動が存在する。細い管を通過した因果の流れが、壺の底にいる自己自身へと戻っていくとき、自己自身が変化してしまうことがあるのに違いないのだ。すると直ちに問題となる事柄がある。この壺自体は一体どこに存するのだろうか?
 壺がそこに置かれる場所など存在しないのだ。それが壺のモデルの誤謬である。場所全体、或いは意味作用は、常に都度、意味する。これが意味作用の秘密であるようだ。やはりここでも光を放ちながら上昇する顔の機能が存在することになる。壺とは結局次のことに帰する――意味することの放棄。そうではなく、壺は、自己自身へと戻るとき、世界全体を経由する。そしてその都度、ズレを伴って崩壊するのだ。自分自身が一つの壺になってしまうとき――閉じてしまうとき――人はもはや、「意味すること」を必要としなくなるだろう。要するに人は口を閉ざし、もう何も語らないようになってしまう。例え語ることがあるとしても、彼の厳格な「意味作用」は、彼以外のものを決して意味しなくなってしまう(これがキルケゴールの言う「デモーニッシュなもの」である)。しかしどこまで行っても彼は間違っている。要するに、自殺とは、誤りなのである。
 最初に挙げておいたモデル、「他者」という黒い穴のモデルが回帰する。「他者」はもはや何らの「意味作用」を持たない。言葉は何も意味しなくなり、空しく他者の顔に吸い込まれていく。こうなってしまえばおしまいである。
 意味作用に関する二つのモデル、ヒエラルキーとアナーキーがある。前者の場合顔が上昇し、目も眩む光を放ち始めるのだが、後者の場合顔は偏在し、草木さえもが歌い、或いは沈黙することさえある。後者の場合、一体誰が「意味し」ているのか?アナーキストはこう答える――そんな者など存在しない。この答えは正しいのか、それとも何かを見落とし、或いは何かを忘却しているのか。所与の事実に従えば、「意味作用」は常に都度、意味する。この事実から出発するのがアナーキーであるとすれば、「意味作用」を超越化し神秘化するのがヒエラルキーである。この極端な二項対立に従えば、「彼ら」に「意味作用」を捧げてしまった人びとはそれと知らぬままに神秘主義者であるのかもしれない。
 それとも、マトリックスの体制はそれと区別されるだろうか?神秘主義の場合、恐らく「壺」は所与の事実として、暗黙の事実として受け入れられているだろう。それか、それが実態をすれすれのところで歪曲した冒涜的なモデルであるかのいずれかである。しかしマトリックスにおいては「壺」は強烈な反発を引き起こすモデルであることになるだろう。この意味でマトリックスはジジェクの言う意味で崇高な対象であることになる。
 要するに、我々を支配する強固なイデオロギーの存在を描出できるかもしれないのだ。真実はいつも、権威の側に存在する。真実は権威を側で監視し、そしてその全てのペテンを見ぬいている。


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