何が問題と呼ばれるに値するか?

「解くということはつねに、《理念》として機能する連続性を背景〔基底〕にして、もろもろの非連続性を算出することなのだ。」(『差異と反復上』430頁)

 誰でも、問いを立てる。そして誰でも、解決するだろう。問いは様々である。意中のひとを振り向かせるにはどうしたら良いか。試験に合格するためにはどうしたら良いか。明日の朝食は何にしようか。楽しい時間はなぜこんなにも速く過ぎ去るのか。そしてそれぞれに、暫定的なものから心の中のもっともデリケートな部分に深く突き刺さったものまで様々な答えを用意している。ひとは普通、問いを立てるとはどういうことか、などとは問わない。ひとは問うとき、その問いがもつ条件を見つめることはない。問うことが果たしてできているのか、などと改めて問うよりも、答えることが優先される。しかしもし、問われるものが途方もなく大きなものであった場合、問うことが途轍もなく難しいことであった場合、ひとは、問うことそのものを見つめ直さねばならない。もはや一人の独断で自分専用の答えを出すだけで満足するわけにはいかないだろうし、その答えは現実に変化をもたらすほどに内心の真実に突き刺さるようなものでなければならないだろう。我々の問うべき問いは、「マトリックスとは何か」というものである。この困難な問いを前にして、最低限携えておくべきルールと定石がある。
 問うことを見つめ直すことの重要性は、論理や概念を用いた手続きに、すなわち知の実践に、情に訴える様々な営みから区別されるテクニカルで客観的な側面を認めることから始めない限り理解することができない(或いは、情に訴える成功した試みの数々が、テクニカルな側面を下敷きにしていることを理解しない限り)。ある機械道具を使用するのに説明書を読む必要があるように、知にもまた前提となる了解が必要とされるのだ。問う前に、問うことに関する了解を説明しておこう。
 問うことは、問題に開かれることである。意中のひとを振り向かせるにはどうしたら良いかという問いは、ひとは普通どんな相手に惹かれるのかという別の問いを指し示しているし、また、ひとを好きになるとはどういうことか、愛とは何なのか、といったより抽象的な問いが問われるかもしれない。つまりこうしたもろもろの問いがひしめく「恋愛」という問題圏が存在するのであり、それぞれの問いに、その問いが直面するシチュエーションが、すなわち問題が対応しているといえる。問題は、問いによってアクチュアルに問題となる。
 ここで事例を観察すると、問題に二つのタイプが存在することがわかる。一つ目は極めて特殊的な、特異的な問題であり、それは「◯◯君を振り向かせるにはどうしたら良いか」「◯◯君にのあの仕草はどんな意味だろう」、といった、具体的な問いのただなかで問題となる具体的な恋愛の問題である。二つ目はそうした問いを問う思春期の少女が眠りの淵にぼんやりと問うような、「恋愛とは何なのか」といった抽象的な問いが問題としている普遍的な問題である。特異的な問題はテクニカルな側面を有しているが、二種類の問題は常に相補的な関係にある。特異的な問題は普遍的な問題なしには解かれ得ず、普遍的な問題は特異的な問題なしには問われ得ない。一見前者が純粋にテクニカルに解かれる場合にも、それは後者に関する暫定的な解を前提しているのだし、後者が深淵な仕方で解かれる場合にも、前者のテクニカルな側面が土台となっていなければならない。さて、「マトリックスとは何か」とは、二つの問題を橋渡しする問題に関わる問いである。そしてそれが解かれるとき、普遍的な問題が同時に開かれ、そして問われ、或いは解かれる必要がある。ではその普遍的な問題とは一体何なのだろうか。
 その話に移行する前に、ある問題にその問題に固有の概念と論理が対応するということを理解しなければならない。精神分析という問題を取り上げてみよう。この問題には抑圧、固着、去勢、等々の固有な概念が付随しており、またプロセスに関する固有の論理が走っているはずである。この問題も同様に、二種類の問題を橋渡しする。特異的な問題は具体的な症例において問題となるだろうし、普遍的な問題は精神分析家の倫理を問うだろう。概念は特異的な問題を橋上の問題に移行することを助けてくれる(アンナ・O嬢の臨床経験から自由連想法という手続きが生まれ、そこから様々な概念と論理が形成されたように)。特異的な問題と普遍的な問題は、橋上において同時に問題となる。優れた問題提起をすること、すなわち優れた概念を打ち立て、優れた論理を走らせることは、橋渡しするために必要なのである。
 「マトリックスとは何か」という橋上の問題を打ち立てるにはしたがって、固有の概念と論理が必要なのだ。そうではない仕方で用いられる概念や論理は、お仕着せのものとなってしまう。別の問題から概念を取ってきて、それらしい皮膜を被せても、鋭い審美眼には仕立の悪さがばれてしまう。それは固有の問題を打ち立てることはないのだ。固有の問題とはしたがって、ひとつの風景のようなものである。それは、見晴らすことのできるものでなければならない。個別的な事例を適切に指し示し、同時に普遍的な問いにたいして答えることのできるようなものでなければならないのだ。ダイレクトに普遍にアクセスできるのは、そのような仕方で問題が提起されたときだけだ。そうでないとすれば、それは新書やハウツー本程度の問題しか提起することができないだろう。
 以上が、問題にすることに関する原理論である。これに、実践論が続かねばならない。これまで述べてきたことがルールであるとすれば、次はゲームをプレイするにあたっての定石を知らねばならない。誰でもゲームをプレイするすることはできる。しかし上手く立ち回らないとぱっとしない結果に終わってしまうだろう。実際、「作品」と呼ばれるものは常に、何らかの敵との闘いの記録である。問題を立てるとき、ひとはかならず敵と対峙している。それが現実的な人物でなくとも、成功と失敗がそれとの関係で測られ、優れているか劣っているかがそれとの格闘の腕前によって決まるような敵が存在する。オセロは、そのような闘いのもっともシンプルなモデルである。他のどんなゲームでも基本的には変わらないのだが、ひとまずこのゲームを説明に用いながら具体的な指南をしてみよう。

1、大量の石を取らない

 初心者が真っ先に肝に銘じておくべき教訓である。オセロは序盤にいかにひっくり返す石を少なく抑え、終盤での逆転を準備するかというゲームであると言い換えてよい。なぜそうなるのかというと、多くの石を取ればそれだけ次に自分が石を打てる箇所が減ってしまうからである。オセロで石を打てるマスというのは、自分の石で相手の石を挟むことができるマスのことであり、つまり相手の石が外に露出している箇所が多いほど、ふつう、自分が打てる箇所も多くなる、ということである。中盤の角を取る攻防の場面になると、この打てる手数がどちらが1手だけ多いかで勝敗が大まかに決まってくる。
 問題を立てるとき、直接性というものに二つのタイプが存在することに注意しなければならない。ひとつは、その問題がもつシチュエーションのなかでの道徳的直観への直接性であり、これに則して問題を立てる場合、表現は極めて素朴に、或いはこう言ってしまえば、極めて凡俗になるだろう。例えば戦争から帰還した人物が、戦争を人間の弱さに結びつけ、呪文のように「戦争はいけない」と繰り返す場合や、いじめを発見した教師が、ホームルームで涙ながらに人間の善性を説く場合などがそれに当たる。そういった言葉が人の胸をうつことは、確かにないわけではない。しかし、我々が相手にしているものも、我々が語りかける相手も、そんな戦術に乗るほどヤワではないだろう。素朴な道徳に訴えかける言説は、常識に、すなわち真実味をまとった権威付けの進級から借り受けた正当性以外の正当性をもたない。それは非常に短絡な神経回路に、道徳的に悪とされるものにすぐさま悪をあてがうような、ギリギリまで接近した問と答えの対にその根拠の全てを負っているが、それらの二項はそれ自身、無根拠の上に浮かんでいるのだ。そして、マトリックスという道徳の底の抜けた敵を相手にする際には、その問題の建て方では片手落ちなのだ。そんな直接性は、結局のところ一時の慰めという効果しか持ちはしない。そういった問題の建て方は後半にひっくり返される大量取りなのであり、到底好手であるとは言えない。実際、この直接性は偽の直接性であると言わなければならない。後から覆される直接性である。この教訓の美点のひとつは、人がふつうどんなことを考え、どんな風に感じて生きているのか、その見晴らしがよくなるということである。オセロに限らず、大抵のひとは常に大量取りを狙っている。マトリックスに生きる人々について考察する場合でも、この教訓は効力を発揮するはずである。しかし分析するひとは、自らが荒野に立っていることを知らねばならない。誰かに頼ることはできない。答えは、自らの手で作り上げねばならないのだ。二つ目の直接性の秘密は、こうしたことを手がかりに見つけ出さなければならない。

2、天王山に打つ

 オセロには天王山と呼ばれるマスが存在する。そこに打つことが、自分にとっても相手にとっても好手となるようなマスである。そこに自らの石を打ち込み、相手の好手を潰していくことが勝利への布石になっていくのだ。いわば、自分の陣地と相手の陣地がそこで分割され分配される緩衝地帯、中間地帯、境界線。まだどちらのものでもないマス、答えの存在しない領域。言い換えれば、答えへの道筋を作り出し、勝利への光る糸を手繰り寄せ、手札を組織し、戦況を自ら「作り出す」ことのできる領域のことでもある。全てがそこに賭けられる。組織される認識と、その認識が眺める風景の全体は、その一点を消失点にしてすっかり見違えてしまうのだ。問題を立てる際にも、同様にこの教訓は生きてくる。大量取りが依拠する道徳を超え、見え透いた答えを横目に覗きながら恐る恐る立てる問いを超えたとき、問題の荒野が、まだ誰も入植していない中間地帯が、すなわちそこで何が演じられるのかを人々が固唾をのんで見つめている或る一つの舞台が開かれるのだ。そして問う者はそこに足を踏み入れてしまったのだ。ここにおいて問題は、事実に即して建てられるかどうかという不安を脱ぎ捨て、いかにしてデザインされるか、いかにしてその演目を演じるかという実践的でテクニカルな問いをめぐるものに移行することになる。事実として確認されるべき参照項など、存在しないのだ(或いは存在するにしても、それは一度問題を立ててしまった後から要請される確認作業であるに過ぎない)。マトリックスに関する問題に関してはどうだろうか。そもそも「マトリックス」とは何を意味するのか。勿論、誰も知りはしない。「マトリックス」という概念は、一つの天王山である。それが上手く構成された場合、それだけで自分の勝機は高まるだろう。逆にそれがへたくそな仕方で立てられてしまえば、問題全体がみすぼらしいものになりかねない。
 すると焦点は、いかにして優れた概念を作り上げるかという問題に移ることになる。概念とは、自分の実感に付けられた表札だろうか?しかし直ちに複数の障害が視界をふさぐことになる。まずその実感が多かれ少なかれ素朴な道徳性や通俗的な観方に媒介され、それに汚染されてしまっているという事態。そして次に、その自分の実感が、どれほど普遍的なものとして通用するのかという問題。前者はそれほど手ごわい相手ではないのだが、後者は最後までしぶとく立ちふさがる障害である。前者がいかにして乗り越えられるのかは上述のとおりである。参照項としての現実など存在しないこと。重要なのは、直観を鍛えることだ。道徳に良識に、直観のまなざしを明け渡さないこと。本を読んで、そこに登場した概念をアレンジするというのも良い手である(しかしそこでも、アレンジのテクニックの巧拙が問題となる)。学ぶことは、知識で目を覆うことではない。むしろ何が目を覆っているのかを明らかにし、それを分別して捨てることだ。実際、天王山の舞台で、勝手に自らの普遍性を宣言する直観が存在し、概念が存在するのだ。それを掴むこと。それは問題を掴むことでもあり、少なくともその糸口を掴むことである。そこでこそ、概念と論理はお仕着せのものから生き生きとした生命を持ったものへと進化を遂げる。そして第二の障害だが、その舞台で普遍性を宣言する者は、マイナーな存在であってもかまわないのだ。『アンチ・オイディプス』の例を見てみよう。あの書物で展開される諸概念――脱領土化、脱コード化、器官なき身体、欲望機械、総合の内在的使用、分子的-モル的――などは、「分裂者」という概念的人物によって提唱され、またその人物によってしか提唱されない。それらの概念はその人物によってのみ実感され、その人物の直観のみによって支えられている。このような逆転、ねじれを可能にする論理は何か。それは、「神経症者たちは直接的な現実を生きていない」というものだ。大胆な賭けではある。しかし勝機のある賭けだ。実際、ラカニアンたちはあそこで記述された論理自体に反論することができなかった。ジャック=アラン・ミレールは言っている。ドゥルーズ・ガタリの功績は、モル的な欲望と分子的な欲望を区別したことだ。彼らの失敗は、後者の分裂症的な生を肯定したことだ。これを理論家としての敗北宣言として採ることも可能だろう。
 『差異と反復』における重要なテーマが、ここではテクニカルな仕方で問題となっている。真実は支配者によってではなく、虐げられ見捨てられたものたちによって語られる。マイナーな存在だけが、戴冠せるアナーキーだけが、特異的なものたちだけが、真に偉大なものを、永遠を回帰させることができる。第二の障害を打ち破る論理がここにはある。そのためには、あの道徳などには頼ってはならない。そうではなく、直観を磨き上げること。直接的な認識に到達すること。それこそ、前の節で提起しておいた、第二のタイプの直接性である。参照項としての事実などというものは実は外に投影された先入観に過ぎず、それはあまりに凝り固まっているため、敵の弱点も自分の勝機もまた見ることができない。この次元に到達することが出来れば、天王山は実は自分の手許にあるのだということがわかるだろう。真実は到達されるべき世界の果てにではなく、目の前に転がっているのだ。これが出来てしまえば、あとはその直感を適切な概念に仕上げ、それら同士を繋げる論理を形作ることができる。問題は自ずと立ち上がっていくだろう。景色は一つ一つ組み上げていく必要がある、ということだ。大量の石を取る必要など、もうどこにもない。むしろその悪手は、作り上げた概念と論理を目にした読者たちが勝手にやってくれればよい話でしかない(実際、『アンチ・オイディプス』を読んでそのような悪手に飛びつく人間はあまりにも多い)。

3,盤面を返さない

最も基本的な教訓ではあるが、しかし最も重要な、見逃されがちな教訓である。苛立ち、恨み、憎んでも、盤面そのものを覆してはならない。なぜなら、盤面を覆してもゲームは覆らないからだ。そのとき、問答無用の敗北が決定してしまう。
 このメタファーが意味していることはひとつである。実存と問題を区別しなければならない、ということだ。実存によって問題を染め上げ、独りよがりな仕方で勝利を宣言してしまうことでは、実際、何の成果も得られない。ゲームは冷静であり、そして冷酷でもある。そして何よりも重要なことに、それは安楽のために、ただそれだけのために存在する。楽しむことが重要である。哲学を愛すること。概念をつくり論理を組み立てることを楽しむこと。哲学書の数々は、楽しい概念のおもちゃ箱であるといえる。ひとはそこに深淵な意味を読み取りつつ、それを楽しんでいるからこそ、粘り強く難解さに耐えるはずなのである。
 さて、実存と問題の区別ということだが、これは第一、第二の教訓に沿って物事がうまく運べば自ずとうまくいく。道徳に頼らないこと。事実という参照項を捨てること。直観を鍛えること。ひとはしばしば、力み過ぎて独り勝ちに走る。自分が勝利できる論理を組み立て、そして勝った気でいる。しかし、そんな勝ちの確定している論理では、ゲームは覆りはしないのだ。
 以上が、実践的な教訓である。これらを踏まえれば、優れた概念と論理を備えた橋上の問題としての「マトリックス」を打ち立てることができるはずである。

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