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 言葉にすること。掴みかけては取り逃す記憶やイメージの断片を、言葉の網の中に捕らえ、閉じ込めておくこと。書くことはもう二度と思い出せないかもしれない思い出を、千鳥足の旅から連れ戻して鎖につないでおくことだ。目を盗んですぐに逃げ出そうとするから、じっと見張っていないといけない。しかしそうしていると今度は枷をはめられた白い手足が、煙のように消えていく。思い出は、見つめられることも見逃されることも厭う天邪鬼の子供だ。どこを探しても見つからない、探せば探す程、手の届かない奥底に身を屈めて逃げ込んでしまう。それなのに何か重大な喪失感を残して、飛び石の上を駆けて視界から逃れようとする。僕はそろりそろりとそれを追う、思い出の方に気付かれないように。気づかれたらまた逃げてしまうから。
 興味のないことをするのが苦手だ。興味のないことを考えるのも、覚えておくことも苦手だ。しかし本当に問題なのは、「興味のないこと」という悪魔的なレッテルが、宙を舞って僕を取り巻く様々な事柄、記憶に次々に張り付いては、次の宿主を探してまた飛んで行ってしまうことだ。それゆえ僕は何かを覚えておこうとしても、1週間後に例のレッテルがやってくれば、たちまち忘れてしまうのだ。そして手遅れになったときに、再びその思い出が元通りの姿で僕の前に現れては、僕を困らせる。僕は自分が本質的に、冒涜的な人間だと考えている。ひととの大事な約束は忘れてしまう。ひとが漏らした、その人の重要な真実も忘れてしまう。そして僕自身の重要な真実もまた、忘れてしまう。僕は僕以上に薄情な人間を知らない。「覚えておく」ことが根本的に不可能な人間を、僕は僕以外に見たことがない。だからこそ、僕は文章を書く必要がある。文章は覚えておかなければならない思い出の断片を、その大きく広げた枝の先に捕らえておくことができる。そして、文章は僕にはわからない、僕を一貫して構成する僕の真実を、読者にわかるように封じ込めておくことができる。
 通常、一つの中心化された思い出と、基本的な考えを携えていれば、自分を失うことはあまりない。物事をその中心との距離で測ることができるし、枝を広げて遠くからそれに触ることだってできるだろう。しかし僕の病的な忘却は、その中心の幹を破壊してしまう。自分がどこにいるのか、僕はいつだってわからない。忘れている幹のなりそこないがきっとあちこちにあって、その都度その都度そのなかの一つに舞い降りてみては、これが僕なのだと無邪気に忘却に抵抗してみせようとする。しかし結局「興味のないこと」のレッテルが飛び交うのに呼応して知らず知らずのうちに幹が移り変わっていくのであれば、僕の数々の「これが僕なのだ」は、立ち込めた霧の向こうで頼りなさげな幹の朧げな影として、つまり思い出として僕の枝の隙間から逃れるばかりで、こうやって浮気に僕自身をいくつも育てていけば、いつか何か大きな破綻がやってくるのではないかという恐怖が、その内容を変えながら今度は別のレッテルとして次々に宿主を変えていく。要するに僕は「興味のないこと」「これが僕なのだ」「破綻がやってくる」のレッテルの目まぐるしい饗宴を、ぼうっと眺めていることしかできないのだ。
 この文章を書き始めたとき、僕は何か忘れてはいけない過去の思い出と追いかけっこをしていた。しかし今、もうその思い出の姿はない。いつもこうなのだ。知らない誰かに急に成り代わったような心許なさと、身に覚えのない苛みが、僕の許に残されている。
 


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