わからない、がわかるって、冒険だ。
いっつもここでわからなくなるんよー
と生徒。
わからないがわかってるってのは、すごい、と、褒めます。
ほんとにそうだから。
わからないって、悪いことじゃなくて、
”わからない”、が”わかる”に変換されるそのプロセスが
その人の人生の支えになると私は思っています。
だから、頭のいい子、すぐ何でも分かってしまう子は
わからない、を体験できないと
リセットや方向転換や柔軟性が生まれにくくなるし、
わからない→わかった の変換点で感じることができる
リセットしない、しなくていい、
「私」の存在も置き去りになりがちになるかもしれないと思うのです。
でもありがたいのは音楽ってのはわからないことだらけ。
どんな子にも謎だらけだし、学校みたいに期限もついてない。
学習にとって大事なのは、できるようになることじゃなくて
そのわかるようになっていくプロセスで、
人間というのは、自然の一員としても
学習して先へ進むことで共生の方法を模索して生き延びるしかないいきものだから
私は「わからない」なら分かる範囲でもっとソフトに、という伝え方はしないでおこうと思っています。
わからない、を探す旅、と言ってもいいくらい。
問いはいつもいつも、冒険だし、自分へのチャレンジ。
ここでわからなくなる、といった
生徒さんの言葉は、
ここで「自分が追っていた筋を見失った」ということで、それは
自分の存在が分かっているということで、
漠然とわからない、というのからはもう何歩も先へ進んで、的があたりはじめてる。
ここまできたか、えらいえらい。
見失っているのだから、それはいくら頑張れと言ってもだめで
そこが私がその子のそばにいることの大きな意味になる。
そう有りたいと思います。
そして、たくさん一緒に冒険を重ねたほど、生徒さんとの信頼関係も違ったものになっていきます。
すぐわかる子もすぐにわからない子もそれぞれに壁があり、
その壁を壁としてではなくて、冒険として受け止めて生きてってほしいな。