教えることより、学ぶことに興味がある
一年生のまなびかたが無茶可愛かったという話から、私自身、教えることに興味があるのではなくて、「学ぶ」という仕草に惹かれるのだと気がついた、という話。
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今日もうきうきでやってきた一年生の女の子が開いたのはうちの音楽室でつくった「うたとピアノの本」というテキスト。
そのなかの「みっつずつ」という曲の横に、
りんごが3つずつならんでいる絵を書き添えてあります。
私が描きました。このテキストにはへたうまへたななんちゃってイラストが時々描いてあります。
この曲は3拍子の導入なので、1・2・3・1・2・3・1・2・3と数えました。
音もみっつずつやねー、とか話していると、
そしたら、女の子、
この絵から目が離せないらしくて、
「全部あわせて数えていい?」
というので、どうぞどうぞというと、
可愛い左手の指を3本立てて、
今度は右の指を3本立てて、
何度も何度も見比べて、左手をもう一本たてて
右手は二本たてて、端から数え、
確信したように
「9だ」
と言いました。
も少し上の子だったら、こう言います。
「知っとるデー、さざんが 9やろー」
と。
もしも、幼稚園の子が、しっとるで、で、「さざんがく」で答えたとしたら。
私はものすごくつまらない。
どんなに大人がまだるこしくても、
「じぶんでかぞえたい」という思い。
これはなんとしても待ってあげたい。
人はいつかほっておいても数えたくなるものだ。
そんな「そのときしかできない」体験を見るのが
私の好物。
だから、知っとるデー、といわれると
ああー、と、なります。
それが、もし指で数えるうちに誰かからもっと良い方法として掛け算をまなび
3つが3つ並ぶ美しさとともに「さざんが9」というのを「体験」できたあとの自慢だったら、そりゃすごい、と、一緒に驚けるけれども。
手も使わず、頭も使わず、「かぞえてみたいーー」、のもやもやが湧く前に覚えてしまった子に
3拍子の質感をどやってつたえたらいいんだろう、と。
そうか、そして、私は私自身に気がついた。
私は教えることに並々ならぬエネルギーを注いでいると自分でも思うけれども、教えることが好きなんじゃなくて、学びたい、わかりたい、という人の頭の中に咲いた花が好きなんだということ。
あれが好物だー。
だから、「できない」ってときが楽しいんです。
お、できないか、
そりゃ、チャンスだよ、君。
(私の好物がでてくるチャンスにすぎないがな。)
こういうのも好物。↓