時間は刻むもの?
ガリレオ・ガリレイが振り子の原理を発見して、家庭に「振り子時計」が置かれるようになったのは、西洋において、15世紀のことだったそうです。
私達は当たり前に、1秒とか、1分とかずつ時間は進むんだと思ってて、
そして、私達は、時間を図ったり比べたり分けたりなんかもするし、待ち合わせするのも刻む時間をみんなが共有してるからできることで。
1時間のなかの1分はこのくらい、とか、なんとなく体感にも刻まれていて、私だったら、教室の生徒は40分ごとに入れ替わるので、この時間間隔はほぼ時計を見なくてもわかります。
それもこれも、時計とともに、時間が刻まれるようになったから、なんでしょうね。
でも、
ふっと、揺れるコスモスをみて思ったの。
刻まない時間ってどんなかんじなんだろう、と。
コスモスは台風の予感がする長いストロークの風に押されて、深くお辞儀をしてはまたもとに戻る。揺れる、不定期なリズムで。
音楽の講座やレッスンをやっていく中で、
一生懸命音楽と合わせようとして拍の切り込み線がメロディに食い込んでた人が、そこから開放されて、コスモスみたいに、音楽の流れに身を委ねることができる時があります。
というか、だいたい、はじめての受講者さんがうちでまず体験されるのがそれ。
そのときの、あの、受講者さんの表情、コスモスみたい。
音楽の中で拍とか拍子の支えは
音楽を生き生きさせるのに必要なんだけれども、
そうではなくって、音楽と音楽を区切って分断させてしまってる。往々にして。
これは、でも、私達が刻まれた時間枠の中で制約を受けながら生活してて、
自然な時間を見失ってるてことの一つの現われなのかもしれないな。
時計がなかった時代(あったのかな、そんな時代)は人はどんな時間を体験してたんだろう?
時計という時間の刻みがあるから、私達は共に生きられる。
音楽も拍や拍子があるから、人と共有できる。
それと、コスモスのときのながれと。
時計の時間と、コスモスの時間は、
ならんで、時間はいつも今の先端を開拓してすすむ。