sing dogを評価せよ


昨日、思いついたダジャレをポストした。


このダジャレについての考察と解説をしていこうと思う。


まずこのダジャレを、文章、及び会話とし、その状況や場面を考えてみる。

会話であることから、その場に少なくとも2人以上の人間が居ることになる。
仮にAさんとBさんとしよう。

AさんがBさんに対して
「歌う犬 ドッグりころころ ドッグりこ」と言った。

このAさんの発言は"犬が歌をうたい、且つ『どんぐりころころ』を『ドッグりころころ』と言い換えた"という場面の説明だろう。

Bさんはその発言を受けてなにか自由な返答をするに違いないが、そこは場面に描かれていないので省く。

問題は"犬が歌をうたい、且つ『どんぐりころころ』を『ドッグりころころ』と言い換えた"というところだ。

まず、犬は歌わない。
人語を話すことができないからだ。

それなのにこの犬は歌うばかりか、「どんぐりころころ」という曲の存在を知っており、犬は英語でドッグということを知っており、ダジャレという同じ発音を別の意味で言う文化を知っている(別の言語で言い換えるという高等技術まで有している!)。
知りすぎた犬の存在をAさんは表明しているのだ。


しかしながら、Bさんを含む大多数の人たちは、このような"知りすぎた犬は居ない"と考えるだろう。

存在し得ない"知りすぎた犬"という存在を表明するAさんは、デペイズマンを表現して笑いを創り出そうとしているに違いない。
結論を急いでいる感じも否めないが、私はそう思う。


続いて、ダジャレとしての完成度を見ていこう。

"歌う犬 ドッグりころころ ドッグりこ"

先に触れた"別の言語で言い換えるという技術"は認めたい。
(例:猫が"キャッと"驚いた 等)

しかしながら、その技術を使うがために"どんぐりころころ どんぐりこ"を"ドッグりころころ..."としてしまうのはあまりにも下手だ。

一文字を別な文字に言い換えた上に、濁点までつけているのはスマートでない。

まだ『犬が居ぬ』という方が、受け手にはストレートにダジャレということを伝えられるであろう。

それ程までに、このレベルのダジャレをダジャレとして人に発表することは、言葉を選ばずに言うなら恥ずかしいことだと思う。




しかしながら...

この恥ずかしいとも思えるレベルの低いダジャレを、自信満々に言われたらどうだろう。
面白いことを言わんとする人が、自信満々にこのダジャレを言ってきたらどうだろう。

私はその対比に、シュルレアリスムを感じざるを得ない。
そのシュールは笑いを産み出しはしないか。

そのような想い、願いを、私はこの短い文章の中に込めた。


ここまでの思いを理解した上で、フォロワーの皆さまにこのダジャレを観てもらえたら、私は嬉しい。


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