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密室の中で、起きていること

 産後ずっと在宅ワークをしていたから、保育園の順位は低かった。子どもが幼稚園に入るまでの、ふたりきりの時代は長かった。特に2歳から3歳半にかけては終始育児の泥沼に半身浸かっているようで、わたしは幼稚園の始まる日をまさに切望し、「今日も心中しないで済んだ」と夜な夜な体を震わせていた。

 2歳児の脳はまだ未成熟だし、意思疎通もできているようでできていないから、わたしは子どもの狂人がごとき一挙手一投足に対する苛立ちを日増しに募らせ、ある日、床を殴りつけてしまった。レゴブロックをわたしの顔めがけて投げつけていた幼子は、本人からしたら脈絡のない大きな音に驚いて泣き出した。

 これは危険だ、とわたしはハッとした。叩いたこともなければ怒鳴ったことももちろんない。わたしはわたしが親にされて怖かったことを覚えているから、それだけはしないようにという信念に基づき育児していた。この瞬間まではそうだった。わたしはわたしが限界に近づいているのを自覚した。

 悔しさより危機感が勝った。こんなに寝不足で休息もなく、24時間365日を4年間、片時も離れずいっしょに過ごしていたらいつか虐待してしまうかもしれないという漠然とした恐れは、この時初めてはっきりとした輪郭を持ち、混乱するわたしの目前に立ちはだかった。

 わたしは「そうだ、人と話していないからだ」と思った。スーパーのレジの人と金銭授受で話すほかは、子どもとしか話していなかった。たまに訪ねてくれる友人はいたけれど、子どもの前で育児の愚痴をこぼすわけにはいかないから、わたしはきっと子どもの愚痴が蓄積するあまり心を病んだのだと考えた。

 とにかくすぐにでも回復して、ノンストップの育児マラソンをうまくこなさなくてはならない。あんな、音で威嚇するような嫌な真似、二度とやるわけにはいかない。ネットで精神科の予約を取り、ベビーシッターの検索と依頼と調整をし、3時間の喜ばしい孤独をわたしの日給と同じ6000円で購入した。

 精神科に行きさえすれば助かるような気がしていた。多分わたしは安易だった。診察室では物腰の柔らかい医師が2歳児にまつわるあらゆる愚痴を聞いてくれた。彼はずっと黙って相槌を打ってくれていたが、最後に口を開いた。

「お子さんの脳の検査をしてほしいという理解でよろしいでしょうか」

 たしかにわたしは述べ立てた。2歳児が謎のスイッチで癇癪を起こすからつらい。頑なに雨の日の水たまりから出ようとしなくて泣きそうになることがある。スーパーでは食べもしないパプリカを全部カゴに入れようとするから、諌めて泣かれて機嫌を取って、必要な買い出しさえままならない。

 毎日がひどく長く感じられるのに、タスクが山積したまま、あっという間に過ぎていって無能感が募る。わたしはこれらの愚痴を言う相手を間違えた。言うべきは精神科医ではなかった。共感して同意してくれる似た境遇の経験者にこそ話すべき内容。先生が苦肉の打開策に「脳の検査?」と思うのも無理はない。

 子どもの脳に異状がないのはすでに発達を診てくれている病院で診断済みです、わたしは自分が2歳児と安全に過ごす自信をなくしているんです、きっと疲れているんです、話してだいぶ荷が軽くなったから、またしばらくがんばれそうです。わたしは診察室を後にした。先生は静かに見送ってくれた。

 帰途、久しぶりに着けた腕時計をバスの中で外しながら、このあとまたあの理不尽な育児戦線に戻るのだと思ったら、涙がとめどなく溢れてきて、わたしはリュックに入れっぱなしだった子どものタオルで顔をおさえた。このとき「児童相談所に繋がろう」と思った。なにか策を提示してもらえることを期待した。

 ベビーシッターから子どもを引き継ぎ、「ママキライ」とケラケラ笑われながら、トミカを並べる遊びに付き合い、唐突に顔をトミカで殴られ、痛くしたらダメだよと優しく注意し、それでも泣かれ、抱きしめ、ぬいぐるみで慰め、食べないのに欲しがるメニューを作って並べ、いつものようにひっくり返され、唯一食べる白飯をひとさじずつ掬って口が開くのを待ち、咀嚼するのを待ち、飲み込むのを待ち、吐き出したら受け止め、それを繰り返し、繰り返し、いったいぜんたいこの子どもはどうしてここにいるのだろうと低い意識レベルで考え、嫌がるのをなだめすかしてお風呂に入れ、顔に水がついて泣くのを慰め、風呂上がりの身支度をさせて寝床で絵本を読む頃には、「またしばらくがんばれそう」の『またしばらく』がもう過ぎてしまったことに気がついた。もう一歩も動けない、と思った。寝室から居間に移動し、涙があふれるのを拭くのも面倒で、児童相談所に電話をかけた。夜間の窓口の人はすぐに出てくれた。

 どうされましたと訊かれたので、床を殴ってしまったことを伝えた。子どもに手を上げてはいないものの、その日が近いようにも思えて怖いと言った。どうにか誰かに助けてほしくて、と訴えを続けようとしたら、その人は遮って「まだ手を上げてはいないんですよね」と言った。「だったら大丈夫です」とも。

 わたしはスマホを持って立ち尽くしていた。電話口の人は、心の具合が悪いなら精神科に行くことを提案してくれた。それが難しいなら周りの人に相談するのもよいでしょう。お母さんとか旦那さんとかご兄弟とか、助けになってくれますよ。わたしが「どれもいません」と言うと、「じゃあ精神科」と言われた。

 精神科には奇しくもさきほど行ったばかりです。なんて言われましたか?子どもの脳の検査をしたいですか、と。そうですか、ではまたなにかありましたらいつでもお電話ください。あ、はいわかりました。
――終話。
わたしは確かにわかってしまった。この状況は変わらない。わたしは育児を続けるほかない。

 あんな失望は、経験したことがない。育児は現代日本では自己完結すべき長期イベントなのだ。結局わたしはそのまま卑屈に忍耐を続け、夜な夜な「今日も死なせずに済んだ」と泣いて安堵し、「幼稚園まであと何日」と震える指でカレンダーをなぞり、ぎりぎりの精神状態で母性神話フルマラソンを駆け抜けた。

 なんであんなにがんばってしまったか、余裕の出てきた今となってはいろいろなことに腹が立つ。児相がダメなら役所に行けばよかった。役所がダメなら小児科で相談すればよかった。どこかしら活路はきっとあった。なのにあの夜、わたしは社会への信頼を勝手に失い、ただ疲れ果て、手をのばすのを諦めた。

 わたしが子どもと死ななかったのは単に偶然の結果に過ぎない。眠る我が子の口を塞ぐ夢を幾度みたことか知れない。その度に罪悪感に苦しみ、同時に楽になりたいとも願った。3歳半を過ぎたあたりで子どもが人間っぽくなり、そこから視界が明るく広くなったものの、それまでは悲しいほどに孤独だった。

 虐待致死の報道に触れるたび、わたしは自分と重ね合わせる。「なぜ児相に行かなかった」「なぜ産んだ」「なぜ親であることを手放さない」との外野の誹りは、いずれもイフのわたしに向けられたもののように思う。もしもわたしが2歳の子どもと死を選んでいたら、同じ誹りを受けるのは免れなかったろう。

 日本のあちこちに、あのときの《わたし》がいる。子どもと全力で向き合っても、連日不可解な理不尽に苦しむ《わたし》。夜も子どもが泣くから、抱っこ紐をつけたまま寝ている《わたし》。健やかに育ってもらいたいだけなのに、なにも食べてくれなくて頭が禿げるまで悩む《わたし》。相談相手などいない。

 児相に電話すれば休めたり助かったりするような、単純なシステムは育児業界に存在しない。《わたし》たちは瞬間瞬間を懸命に生き、子どもを育み、トイレさえひとり油断して行けない暮らしの中で、時々怨嗟の如きSOSを放つのに、それが「明日の託児」にも「制度的救済」にも繋がることは滅多にない。

 虐待は悪です、そんなことは百も承知だ。そこそこ普通を自負する人間でも、虐待しそうになるところまで育児という営みは理性を圧迫することがある。だからこそ負荷分散が必要で、児相に繋がりハイ解決という机上の空論からいい加減議論を進めるべき時期に来ている、ただそれだけのことなのに。なのに。

「お母さんだからがんばれる」と誰かが言った。わたしも「お母さんだからがんばれる」と思ってしまった。わたしはお母さんである前に殴られれば痛いし毎夜数時間は眠らなければ死ぬ人間なのに、なぜかそんな当たり前の前提まで、奪われがちな《わたし》たちと、それゆえ人生を喪う子どもたちがいる。

ここまでお読みくださりありがとうございました。虐待は簡単に語れるものではなく、支援の仕組みの適切性含め、議論していかなくてはならない問題だと思います。ひとりでも多くの孤立する親が支援に繋がれますように。そしてすべての子どもが安全に楽しく育まれますように。未来に期待して。

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