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浮いている子どもたちへ

私は「浮いているかもしれない」と気づいたのが、人よりずいぶん遅かった。それでも、どうにかしようとは思わなかった。いや、考えつきもしなかった。

同世代の友達と張り合う気はなかったけれど、今になって思えば、身近に「この人みたいになりたい」と思える大人が欲しかったのかもしれない。

「浮いている子どもの行動」というものは、どこか自覚のようなものがある。私の記憶の中で、それが一番古くに刻まれたのは、幼稚園の時だった。

登園してしばらく遊ぶ。すると定時に「お庭に集まりましょう」「体育館に集まりましょう」と、放送がかかる。遊具を片付けて、園児たちはトイレに行く。尿意がなくても、一度は個室に入り、水を流して、手を洗う。「お集まりの前にはトイレに行く」。それがルールだった。

5歳の私は、それを見て「バカじゃないの」と思っていた。だって、したくもないのに個室に入る必要がどこにある?とはいえ「どうしてトイレに行かないの?」とか「先生、トイレに行っていない、おともだちがいます!」なんて指摘されるのも面倒くさい。目立つのは、もっとバカみたいだ。

どうしたものかと考えた私は、園長室へ行った。

「おしっこしに行きたくない時があるけれど、トイレに行かなかったら変に見られる。けれど、そんな意味のないことはできません」。

園長先生は、「じゃあ、何もしたくない時は、みんながトイレに行っている間に、こっそり園長室にいらっしゃい。おしゃべりしましょう」と言った。

こうして私は、さっそくその日から園長室に通う「クセモノの処世術」を身につけた。

ある日うちに帰ると、両親が妙に改まった顔で待ち構えていた。「あなた、幼稚園でお友達に『バカ』って言われてるの?」

誰かの保護者だろうか、それとも友達が心配して伝えてくれたのか。とにかく、「バーカ!バーカ!」と囃し立てられているという話が、両親の耳に届いたらしい。

「バカって言われたこと? ないと思うけど……。」
まったく記憶にない。両親は心配そうにこちらを見つめ、幼稚園でも「何かあったら先生に言ってね」と、担任にやたら気を遣われる。そうなると、こちらも「いやぁ……」と、妙に肩身が狭い。

けれど、本当に思い出せなかった。困った私は、また園長室に相談しに行った。

園長先生が目撃していた光景は少し違ったらしい。
「そうよ、私はバカよ」と笑ってスタスタと歩いていく私と、急にバカにするのがバカらしくなって取り残される子どもたち。
どうやら、私にとっては取るに足らないこと過ぎて、記憶に残らなかったようだ。

「あなた、なかなかやるじゃない」。
園長先生は、その日、きれいなお花のカードをくれた。

それからというもの、幼稚園生活でちょっとした挫折を味わうたび、「まあ、こっそり園長室に行けばいいか」と思っていた。

それにしても、浮いていた子どもの私にあれほどしっかり向き合ってくれた大人は、それ以降ついに、彼女以外に会うことはなかった。

浮いている子どもは、放っておかれがちである。
「あの子はしっかりしているから」「ひょうひょうとしているから」「自分の世界を持っているから」と、勝手に納得されてしまうのだ。が、そうやって「ほうっておく」を間違えて、「放置」されては敵わない。

子どもは想像力が豊かだけれど、どれだけ背伸びをしていても、経験が足りない。成人の年を倍過ぎて久しい今、「しっかりした子」「お姉さんっぽい子」というのは、子どもの世界での「年長者っぽさ」に過ぎないのだと気づく。むしろ、その子たちが成人してからは、「子供っぽい」と評されるのがオチだ。
子ども心を忘れない大人になるのではなく、大人びた子どものまま歳を重ねる人の、なんと多いことか。

浮いている子どもたちへ。その浮力は、きっと「力」になる。

もし園長先生が「あら、それなら先生たちに言っておくわね。お集まりの前にトイレに行かなくてもいいようにしましょう」と、園全体に通達していたら、がっかりしていただろう。
園長先生は、ルールを変えるのではなく、「逃げ道」をそっと教えてくれた。そうした「裏道」を知ることが、私には何より大事だった。

毒に体を少しずつ慣らしたクセモノが長生きするように、ちょいちょい挫けそうなことはあれど、今も私は元気です。

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