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ドイツ歌曲の楽しみFreude am Lied(51)

生のコンサートでは“今まさにここで生まれる音楽”を共有していただける喜びがあります。その時間を1曲1曲切り取って“今まさに”のひとかけらでもお届けできたら!とお送りするドイツ歌曲の楽しみ Freude am Lied…

51曲目はレーガー♬…ひとかけら、届くかな?

マックス・レーガーMax Reger(1873-1916)作曲
 歌曲集『 素朴な調べSchlichte Weisen Op.76 』より
リンデの花咲くときWenn die Linde blüht Op.76-4
 
                 ソプラノ 川田亜希子 ピアノ 松井 理恵

リンデの花が咲く季節は
ガチョウの雛がかえる季節
私がガチョウの雛の番をしていると
恋人がやってくる

もし大好きな彼が私にキスしたら
ガチョウの雛たちは苗床にいってしまう
もし それが農夫に知られたら…
だから 恋人よ キスはやめてね

 ドイツの作家ブッセ (Karl Hermann Busse,1872-1918) による詩。

 まるでディズニーの映画のワンシーンのような可愛らしい曲ですね。登場する少女は羊飼いならぬガチョウ飼い。冒頭の歌詞にあるリンデとは菩提樹のことで、開花時期は5月末から6月末。ちょうどその時期にガチョウの雛が孵るのでしょう、初夏の風が気持ちよくそよぐなか、少女が恋人と気持ちよく干し草に寄りかかりながら雛の番をしている場面です。
 かわいらしいモチーフで始まるピアノはガチョウの雛がよちよち歩いている様子ですね。歌声部も同じモチーフで始まり、歌詞の繰り返しがメルヘンチックに響きます。2行目の後の短い間奏は絵本のページをめくるような効果ですね、続く3・4行で恋人の登場が嬉しく描かれます。のんびりとしたレガートな歌声部のメロディーに挿入されるメリスマが、恋人たちの初々しさを表しています。2節目の前の長めの間奏は2人がダンスでもしているかのように朗らかに歌声部のメロディーを引き次いでいます。2節目の歌声部に再び現れるレガートなメロディーと挿入されるメリスマは恋人たちの戯れ…。キスに夢中になっています。冒頭の雛のモチーフで我に返ったときには時すでに遅し、雛たちが苗床を荒らして…。molto rit. で大胆に場面転換され、「ということになる前に、残念だけどキスはおあずけね、あ・な・た♡」とオクターヴを駆け上がるメリスマで、彼女が恋人からすっと身を引く様子が歌われ、曲が結ばれます。


レーガー没後100年の2016年にレーガーを特集したコンサートを歌いました。その時の解説を以下に張り付けてみます、よろしければ参考になさってくださいませ。

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マックス・レーガーMax Reger( 1873 - 1916 )
ドイツの作曲家。バッハ以来沈滞していたオルガン音楽を発展させたレーガー。多作家で知られ、歌曲も300曲以上残している。兵役についたころから過度の喫煙飲酒にはまり、除隊後、本格的に音楽の道へと進み、演奏・作曲活動に追われ、過労が原因で(肥満とニコチン中毒が原因とも)43歳でこの世を去る。身長が約2m、体重は100kg以上あった彼は、悲しいかな別の意味でドイツ最大の作曲家といわれている。

彼の作品は拡張された和声と複雑な対位法からなるものが多く、当時も“晦渋な作風”とされていた。歌曲集『17の歌Siebzehn Gesänge Op. 70 』はレーガーがエルザという生涯の伴侶を得た1902年に作曲された。この年はレーガーの「歌の年」といわれるほど多くの歌曲が作られた。エルザとの暮らしのために曲を書くのだが、どれも複雑過ぎて売れる見込みのないものばかり。出版社からの「一般の人に好まれるものを(売れるものを)」との注文を受けて作られたのが歌曲集『 素朴な調べSchlichte Weisen Op.76 』(1903-1912作)であった。民謡風を目指し、表現と技術に気をつかって作ったつもりだったが、彼の本来の才能は、意図した「素朴」とは異なる、「素朴へのあこがれ」となって現れてしまった。全部で60曲からなる歌曲集なのだが、ヒットしたのは「マリアの子守歌 Mariä Wiegenlied Op.76-52」1曲だけだった。他にオルガンやピアノのための作品、そして室内楽と様々な分野の楽曲を書いては出版社に持ち込むのだが、断られる一方。そんな彼を救ったのが当時の音楽界のスーパースター、リヒャルト・シュトラウスRichard Strauss(1864-1949)だった。ミュンヘンやライプツィヒの出版社にレーガーを推薦してくれたのだ。シュトラウスだけでなく当時の主だった音楽家たちは、音楽会でレーガーの作品を積極的に取り上げたり、音楽学校の職を世話したりと、彼を長年にわたって支えた。そのお陰で次第に彼は「彼の家は鉄道だ」と言われるほどヨーロッパ各地を飛び回る売れっ子の音楽家になり、1910年には最初のレーガー音楽祭が開かれるまでになる。しかし仕事のストレスと飲酒がたたって1914年に倒れてしまう。静養するために人生で初めて持ち家をイエナに持ち、その静かな暮らしの中書かれたのが歌曲集『5つの子供のための新しい子供の歌 5 Neue Kinderlieder Op.142』。レーガー夫妻には子どもはなく、孤児だった女の子二人を養子としてむかえ育てた。彼女たちにどれだけの深い愛情が注がれたのかが、この曲集からうかがえるだろう。

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