ドイツ歌曲の楽しみFreude am Lied(52)
生のコンサートでは“今まさにここで生まれる音楽”を共有していただける喜びがあります。その時間を1曲1曲切り取って“今まさに”のひとかけらでもお届けできたら!とお送りするドイツ歌曲の楽しみ Freude am Lied…
52曲目もレーガー♬…ひとかけら、届くかな?
マックス・レーガーMax Reger(1873-1916)作曲
歌曲集『 素朴な調べSchlichte Weisen Op.76 』より
小さなバラ園に Op.76-18
ソプラノ 川田亜希子 ピアノ 松井 理恵
ある小さなバラ園に
一本の木がたっている
その上に一輪のバラが咲いている
とても美しく繊細な一輪のバラが
ああ 神様が私にくださったのだ
この妙なるバラを!
親愛の情をもってしまっておこう
大切に胸の奥深くに
多くの教会音楽を残したドイツの作曲家 フリデリキDaniel Friderici (1584-1638)による詩。
オルガン曲をたくさん作曲しているレーガーらしい、コラール風の歌曲です。歌の旋律は極端な跳躍を避けた順次進行で易しく、そして優しく進んで行きます。気持ちのきっかけが欲しいだけのシンプルで短い前奏は歌声部のメロディーの最初の3音をなぞったもの。各節の最後まで終止形を避けて宙に漂うように各フレーズが歌われます。行間に空白を十分とって(ゲネラルパウゼ)、ぎりぎり4拍子の歩みで進みます。神聖な雰囲気ですが、内容はいたってシンプル、「バラを見つけた」ということだけ。詩というものは詩人の心の風景が映し出されたものです。短調で始まる曲調からも、この時の詩人の心には影が差していたことがうかがえます。ふと目に入った木の上のバラが特別に映ったのでしょう、1段階高い音域で始まる第1節3行目の歌声部のメロディー「その上に一輪のバラが咲いているdarauf steht ein Röselein 」は喜びの感情が声をひそめて歌われています。素敵なものを見つけた時って、小さな声で喜びますよね、そのppピアニッシモです。4行目のピアノパートは、その1輪のバラに光を当てるように響きはじめます、フォーカスしていくように濃度を増して…。歌声部の下降形「とても美しくwunderschön」は引き伸ばされて、感嘆のため息を表しています。続く間奏は、まるで歌詞の無い詩の1行のように挿し込まれています。第2節初めの「ああ 神様が私にAch, Gott… 」は感激のフォルテfでドラマチックに歌われ、ピアノパートの16分音符の動きは“キュン♡”というときめきに聴こえます。3行目「親愛の情をもってしまっておこうGanz freundlich wollt' ich's schließen ein」は2回繰り返されます、一度目はメノピアノmeno Pで、2度目はただのピアノPで…。ここでも喜びで声がどんどん小さくなっていますね。4行目は言葉を区切って、細切れに繰り返されています。高ぶった感情を自ら鎮めようとしているようです。最後のメロディーはPiù lentoで急ブレーキをかけて歌われます、まるで太文字で描かれるように。ピアノパートのピカルディ終止(短調の曲なのに最後の音だけ長調の和音で終わる)は心に灯った明かり…。“救い”の響きです。1輪の花に救われること…皆さんにもきっとありますよね。
この曲は『素朴な調べSchlichte Weise』』という曲集のものです。解説(このページの最後)にある通り、出版社に「売れる曲をかいてください」と頼まれ書いた曲集です。60曲という、とんでもない曲数がおさめられていますが、ヒットしたのはマリアの子守歌Mariä Wiegenlied Op.76-52の一曲だけでした。レーガーはあの手この手を使って親しみをもってもらえる曲をこしらえたのですが…。そのあの手この手の一つがこの曲ということです。第2節に神様が登場する詩であること、教会音楽の作曲家が書いたであったこと、これらをもとに、これ見よがしにコラール風の歌曲を書いたのでしょう。思惑はどうであれ、このシンプルさはスッと胸に届く美しさですね、まさにSchlichte(素朴な)Weisen(調べ)ですね。
レーガー没後100年の2016年にレーガーを特集したコンサートを歌いました。その時の解説を以下に張り付けてみます、よろしければ参考になさってくださいませ。
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マックス・レーガーMax Reger( 1873 - 1916 )
ドイツの作曲家。バッハ以来沈滞していたオルガン音楽を発展させたレーガー。多作家で知られ、歌曲も300曲以上残している。兵役についたころから過度の喫煙飲酒にはまり、除隊後、本格的に音楽の道へと進み、演奏・作曲活動に追われ、過労が原因で(肥満とニコチン中毒が原因とも)43歳でこの世を去る。身長が約2m、体重は100kg以上あった彼は、悲しいかな別の意味でドイツ最大の作曲家といわれている。
彼の作品は拡張された和声と複雑な対位法からなるものが多く、当時も“晦渋な作風”とされていた。歌曲集『17の歌Siebzehn Gesänge Op. 70 』はレーガーがエルザという生涯の伴侶を得た1902年に作曲された。この年はレーガーの「歌の年」といわれるほど多くの歌曲が作られた。エルザとの暮らしのために曲を書くのだが、どれも複雑過ぎて売れる見込みのないものばかり。出版社からの「一般の人に好まれるものを(売れるものを)」との注文を受けて作られたのが歌曲集『 素朴な調べSchlichte Weisen Op.76 』(1903-1912作)であった。民謡風を目指し、表現と技術に気をつかって作ったつもりだったが、彼の本来の才能は、意図した「素朴」とは異なる、「素朴へのあこがれ」となって現れてしまった。全部で60曲からなる歌曲集なのだが、ヒットしたのは「マリアの子守歌 Mariä Wiegenlied Op.76-52」1曲だけだった。他にオルガンやピアノのための作品、そして室内楽と様々な分野の楽曲を書いては出版社に持ち込むのだが、断られる一方。そんな彼を救ったのが当時の音楽界のスーパースター、リヒャルト・シュトラウスRichard Strauss(1864-1949)だった。ミュンヘンやライプツィヒの出版社にレーガーを推薦してくれたのだ。シュトラウスだけでなく当時の主だった音楽家たちは、音楽会でレーガーの作品を積極的に取り上げたり、音楽学校の職を世話したりと、彼を長年にわたって支えた。そのお陰で次第に彼は「彼の家は鉄道だ」と言われるほどヨーロッパ各地を飛び回る売れっ子の音楽家になり、1910年には最初のレーガー音楽祭が開かれるまでになる。しかし仕事のストレスと飲酒がたたって1914年に倒れてしまう。静養するために人生で初めて持ち家をイエナに持ち、その静かな暮らしの中書かれたのが歌曲集『5つの子供のための新しい子供の歌 5 Neue Kinderlieder Op.142』。レーガー夫妻には子どもはなく、孤児だった女の子二人を養子としてむかえ育てた。彼女たちにどれだけの深い愛情が注がれたのかが、この曲集からうかがえるだろう。