見出し画像

ドイツ歌曲の楽しみ Freude am Lied⑰

生のコンサートでは“今まさにここで生まれる音楽”を共有していただける喜びがあります。その時間を1曲1曲切り取って“今まさに”のひとかけらでもお届けできたら!とお送りするドイツ歌曲の楽しみ Freude am Lied…

17曲目は!ブラームス♪ …ひとかけら、届くかな?

ブラームスBrahms : 私の恋は緑 Meine Liebe ist  grün Op.63-5
                   ソプラノ 川田亜希子 ピアノ 松井 理恵

私の恋はリラの茂みのように緑で
太陽のように美しい
太陽はリラの茂みに輝きかけ
芳香と喜びで茂みを満たす

私の魂はナイチンゲールの翼をもち
咲き誇るリラの中 羽ばたいている
その香りに浸りつつ 愛に酔いしれた数々の歌を
声高く歌う

詩はシューマンの末息子、フェーリクス・シューマンFelix Schumann(1854-1879)による。

 愛の喜びをこれでもかと爆発させているブラームスの付曲。リラとはライラックのことで、ちょうど今の季節に香水のような甘い香りを放つ濃い紫色の花です。繊細な花で、少しでも気温が下がるとすぐに茶色く変色してしまいます。こうして綴っているだけでも香りがしてきそうです。そんなむせるような甘い香りの中歌われる曲です。
 息せき切ったような冒頭の音楽は、各節の終わりのピアノのフェルマータまで、ピアノにも歌にも立ち止まることを許さないまま突き進みます。まるで少しでも緩んでしまうと愛が消えてしまうのではという強迫観念にかられているようです。私たち演奏者はその嵐にまかれてしまいそうになりますが、ピアノのバスの音をアンカー錨にしてどうにか嵐の荒波を乗り切ろうと音楽にしがみついて演奏します。ちょっと必死な感じなのは気のせいではないのです。でも必死でない愛なんてありませんものね。ね?皆さん?

 下の写真は先日、4月末に出会ったライラックの花です。葉はなんとハートの形をしています! この曲の冒頭の歌詞“Meine Liebe ist grün(私の恋は緑) wie der Fliederbusch(ライラックの茂みのように)”は、ライラックの葉のようにハートが飛びまくっている、そんな私の恋!と訳してもいいかもしれませんね。

画像1

 

 以前、シューマンを特集したコンサートを歌った時に、シューマンに所縁ある作曲家としてブラームスも数曲歌いました。その時のプログラムノートの一部を以下に張り付けてみます。作曲家について知ることは、曲の“生まれ”を知る一つの手段。“生まれ”を知ると、その曲との距離がぐんっと縮まって仲良くなれるのです。​

✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻

ヨハネス・ブラームスJohannes Brahms
 1833年5月7日、ハンブルクの貧民窟のアパートに生まれる。父はコントラバス奏者だったが、十分な収入を得られず生活は苦しいものだった。それにもかかわらずブラームスは十分な音楽教育を受けることになる。それは早くに音楽で生計を立ててほしいという父の願いからであった。10歳で音楽会に出演し11 歳でピアノ・ソナタの作曲を試み、ピアニストとして作曲家として成長しつつあったブラームスだが、夜は家計を助けるために酒場やダンスホールでピアノ演奏 のアルバイトをしていたという。ピアニストとして次第に名の知れるようになった彼には次々と重要な人物との出会いが待っていた。1853 年、生涯の友人となるヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムJoseph Joachim(1831―1907)と知り合う。当時ヨアヒムは既に大音楽家としての地位を築いており、以降、精神的にも音楽的にも彼を支え、多くの影響を及ぼすことになる。ロベルト・シューマンを訪ねるよう勧めたのもヨアヒムである。シューマン訪問はブラームスにとって二つの重要な意味をもつ。一つは ロベルトが『音楽新報』に彼を「新しき道」と紹介し、音楽家としての道が一気に開けたこと。もう一つは人生最愛の友、クララ(シューマンの妻)との出会いである。この訪問後ブ ラームスはしばらくシューマン家に滞在し、親しい時間を過ごす。ロベルトが入院すると真っ先に駆けつけ、クララを助けた。それは子どもたちの世話をした り、家計簿をつけたりと家族同然の関係であった。ロベルトの死後もシューマン家との親しい関係は続き、音楽の上でもブラームスは曲が仕上がる度にクララに 意見を求め(女流ピアニストとして活躍をしていた)、彼女と交わした手紙の数は膨大である。その後ウィーンを拠点に活動を展開、1868年作曲の「ドイツ・レクイエム」は彼の名声を確立し、 1871年にウィーン楽友協会の音楽監督に就任、1876年には20年に及ぶ構想を経て「交響曲第1番」を発表する。以降、貧しい少年時代とは打って変 わって、1897年4月3日に亡くなるまで、純粋な音楽活動だけで十分な報酬を得るという、経済的に安定した人生をおくった。

いいなと思ったら応援しよう!