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ドイツ歌曲の楽しみ Freude am Lied㉒
生のコンサートでは“今まさにここで生まれる音楽”を共有していただける喜びがあります。その時間を1曲1曲切り取って“今まさに”のひとかけらでもお届けできたら!とお送りするドイツ歌曲の楽しみ Freude am Lied…
…2020年10月にドイツ歌曲の夕べLiederabendを歌う予定でした。希望をもってチラシ&チケットを準備、印刷…。けれども時はコロナ第2波の真っ只中、「是非いらしてください!」と言えない状況での開催にはどうしても踏れず、結局ホールをキャンセルすることに…。そこで始まったのがこのドイツ歌曲の楽しみ Freude am Liedでした。「未来につなげるため!」と、予定していたプログラムを少しづつ録音することになったのです。
…そして昨年2021年10月…。様々な制限はありましたが、ようやく!こちらでお届けしてきた全21曲を“生のコンサート”で歌うことができました。コンサートを歌うことが歌い手にとってこんなにも大切で有り難いものだっただなんて!と心に深く留めました。
…そして!次のコンサートにむけて!!ドイツ歌曲の楽しみ Freude am Lied第2章がスタートしました。再び“今まさにここで生まれる音楽”をひとかけらでもお届けできたら!と頑張ってみます。その最初の曲はモーツァルト!
ひとかけら…届くかしら?
モーツァルト Mozart:夕べの想い Abendempfindung K.523
ソプラノ 川田亜希子 ピアノ 松井 理恵
夕暮れが訪れ、太陽は消え去り
月が銀色に輝いている
こうして人生の最も美しい時間は過ぎ去り
舞うように逃げ去っていく
やがて人生の色とりどりの場面が過ぎ去り
幕が下りる
人生というドラマが終わる!
すでに友人たちの涙が墓の上に注がれている
やがて私はおそらく(西風が吹くように
私に静かな予感が吹き寄せれば)
この巡礼の旅を終わらせ
安らぎの国へと飛びたつだろう
あなたたちは私の墓の傍らで涙を流し
そして遺灰を目にするだろう
おお、友よ、その時私は姿を現し
天の風があなたたちに吹くだろう
あなたも私に一滴の涙を贈っておくれ
私の墓にスミレを摘んでおくれ
そして魂のこもった眼差しで
そっと私を見おろしておくれ
どうか私に一滴の涙を捧げておくれ
そして、ああ、どうか私に捧げることを恥ずかしいとは思わないで
おお、それは私の冠の
最も美しい真珠になるのだから
カンペ(Joachim Heinrich Campe 1746-1818)の詩「ラウラに寄せる夕べの想い Abendempfindung an Laura」。 ただし、モーツァルトは「ラウラに寄せる」の部分を省略した。 カンペは啓蒙主義の熱心な教育者で、児童文学作家。(モーツァルト新全集では「詩人不明」となっている。)
人生を一日に例えるならば、日が沈む夕方は晩年を意味します。この曲は晩年にさしかかり、自らの死に思いを馳せる…そんな曲です。人生100年時代とも言われる今、一体いつ頃を“晩年”と呼ぶべきでしょう?そしてこの曲は一体何歳の人の心情を歌ったものでしょう?
たゆたう波のようなピアノパートに、身をもたせ掛けるように始まる歌声部のメロディ。それは美しい夕暮れに感嘆するため息のよう。そこから始まる懐古の念…。あれこれと思い出がよぎる様子がせわしない言葉への音付けに反映されています。映し出される情景には早、自らの墓に涙する友人たちの姿やそこに魂となって吹き現れる自らの姿が…!友人たちのくだりでは心温かな明るい響きが歌われていますが、続く恋人への切なる願い(一滴でいいから涙を!)の部分では、涙がポロポロ滴る音型で切実な思いが歌われています。死を前にしてなお、お願いごとの絶えない、人間らしい人の歌です。果たして差し迫った死なのでしょうか? 否! 私には残された時間への希望、憧れを歌ったものに思えてなりません。こんなにも瑞々しい音楽なんですもの!
モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)にとって確かにこの曲が作った1787年は、父や友人との相次ぐ死別に自らの体調不良も重なり、“死”は身近になりつつありました。けれども亡くなる前の父に手紙でこう綴っています。
「我々の最後の目的ともいえる死。この人間の良き友と私は親しくなりました。それは孤独でも恐ろしいものでもなく、安らぎと慰めに満ちたものです。この幸福を与えてくれた神に感謝します。」
“死”を受け入れる穏やかさを病床の父への慰めの言葉として贈ったものですが、この曲の世界感にぴたりと寄り添うもののように思えてなりません。
「五十にして天命を知る」という世代の私です、この曲を歌うのにちょうどいい年齢、老い具合(?)のような気がします。皆さんには何歳の人の歌に聴こえますか?