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ドイツ歌曲の楽しみFreude am Lied*59*

生のコンサートでは“今まさにここで生まれる音楽”を共有していただける喜びがあります。その時間を1曲1曲切り取って“今まさに”のひとかけらでもお届けできたら!とお送りするドイツ歌曲の楽しみ Freude am Lied…

59曲目はツェムリンスキー♬…ひとかけら、届くかな?

アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーAlexander von Zemlinsky(1871-1942)作曲
乙女の嘆き Des Mädchens Klage        
                                                            ソプラノ 川田亜希子 ピアノ 松井理恵

私の人生の幸せは滅んでしまいました
厳しい義務を強要されて
だから 若者よ 指輪を引き取ってください
 私の父はあなたを好きでないの
 
確かに 結婚式の花輪のために
庭に花を植えました
そして太陽の光の中、花開き 咲き誇る
それらの花々を既に眺めてもいました
 
けれども突然嵐がやってきて
 花は打ち倒されてしまったのです
そして 枯れずに庭に残ったのは
 ローズマリーだけでした
 
そこには運命が
 はっきりと暗示されていました
ローズマリーの花輪だけが
 私の頭を飾るのだと

 オーストリアの詩人ツースナーVincenz Zusner(1803-1874)による。

 激しく打ち付けるような音型で始まる前奏は悲劇の嵐。その音型にさらにオクターヴの跳躍を加えて「ダメになっちゃったのよ、私のしあわせが!」とヒステリックに乙女の吐露がはじまります。続く“von harten  Zwang厳しく強要されて”の3音節に充てられたD音の連続は自然なテヌートを生み、まるで乙女がこぶしを握り締めて膝のあたりをたたいている様に聴こえます。上行形で終わるそのフレーズは、子供のような泣きっぷりです。その感情の先に衝撃的な事実が…。“etwas ruhiger幾分穏やかに”の指示は、泣き過ぎて空っぽになってしまった感情を意味しているのでしょう、“Da, Jüngling, nimm den Ring zurück だから 若者よ 婚約指輪を引き取ってください” と穏やかに、あろうことか長調で呼びかけています。恋人に微笑みかけているのでしょうね。けれども続く“Mein Vater liebt dich nicht  私の父はあなたを好きでないの” は視線をそらすように歌われます。ここまで、息をのまずにはいられない第1節でした。これだけドラマチックに始まったのです、第2節を始めるには時間が必要だったのでしょう、長い間奏が挿入されています。ピアノのそこここにある2度の下降形(ため息の音型)が痛々しく響きます。第2節はいそいそと結婚の準備をしていた幸せな婚約時代を振り返る内容です。二つのフレーズで構成されるこの節、同じメロディーで始まりますが、二つ目の最後は「結婚式を楽しみにしていたのに…」と肩を落としている姿が目に浮かぶ歌いおさめになっています。そして再び嵐の間奏を挟んで冒頭と同じ打ち付けるメロディーで第3節が始まります。“Die Blumen sanken hin花は打ち倒されてしまった”に充てられた半音進行の下降形は減七の和音に流れこんで、不気味に重々しく響きます。それは庭に唯一残ったローズマリーの意味するところなのです。ローズマリーには愛や憧れの他、死という意味があると言われています。愛の死を暗示しているのです。その“Rosmarin”は3小節にも渡って引き伸ばされて苦々しく歌われます。続く間奏は第2節前同様次第に穏やかになり、より天国的な響きになっています。愛が本当に死んでしまったことが聴いて取れ、最終節は讃美歌のような様相で始まります。「こういう運命だって、ローズマリーが教えてくれていたのね」とあきらめの感情が乾いた明るさで響きます。最後の「私の頭を飾るのだ」は“morendo死ぬように”の指示で、本当に死んでしまうように最後の音をCisにガクッと落として歌われます。後奏は乙女の嘆きの悲鳴が遠く木霊のように響き、暗く結ばれます。

 父親の反対にあって泣く泣く婚約指輪を恋人に返す娘の歌でした。ご結婚されている方、ご自身の時はいかがでしたか?スムーズでしたか?どなたかの反対はありましたか?私は…。色々面白いので、また別の機会にお話ししましょう。

✻アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーAlexander von Zemlinsky(1871-1942)✻  
ウィーン生まれの作曲家。両親はユダヤ教。ブラームスがシューマンに見出されたように、ツェムリンスキーはブラームスの有力な後押しに恵まれた。マーラーにも才能を認められ、作曲活動の他、ウィーン、プラハ、ベルリンなどで指揮者として活躍する。またシェーンベルク、エーリヒ・コルンゴルト、そしてマーラーの妻となるアルマ・シントラー等に作曲を教えた優秀な教師でもあった。(ツェムリンスキーとアルマとは恋仲であったが、結局アルマは当時スーパースターであったマーラーを選び1902年に結婚してしまう。)ナチス・ドイツの台頭に伴い1938年にはアメリカに亡命を余儀なくされ、英語の話せないツェムリンスキーは見知らぬ土地で病気がちになり、1942年ニューヨーク州ラーチモントで肺炎のため逝去する。彼の作品は感情に溺れることなく冷静な計算と客観性で組み立てられていて、後期ロマン派を一歩踏み出した知的な作風を示している。

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