驚きの写真家体験
11月の撮影「美の覚醒」に向けて(空きアリ)https://www.facebook.com/events/3704213516268873
自分たちをまずは覚醒させるべく、お互いのプロデュースを行い、撮影してみた。
一番、困ったのは写真家の行貝チヱさんを撮る時。
見よう見まねでスタイリング担当のYOKOさんとワタクシとで交互にファインダーを覗いてシャッターを押し、かなりの枚数を撮影してみたのだが、上手くはいかなかった。
そりゃ、そうだろう。
しかし、チヱさんの指示を受けながらファインダーで被写体をみながらシャッターを押しているうちに
色(色のバランスを瞬時に判断する)
造形(形を読み取る)
意識体(心の動き、内面に在るものを捉える)
最低でもこの3つの力がなければ写真家にはなれない、と悟る。
難しいのはその判断が
「瞬時に」行われることと
「修正が瞬時にできること」=「言葉で伝えられること」
「細部にも全体にも一瞬で目がいくこと」
も、できなければ、写真は仕上がらないわけで
常に会話をしていてチヱさんの「洞察力」はスゴイなと感じることが多々ありましたが、この職業の為せる技でもあったわけです。
ある意味、無慈悲なほどに美しい、美しくない、がジャッジされますが、そのスピード感がなければ、美しいものは捉えられないのが写真という芸術の瞬時の切り取り作業ではないかと感じました。
一方、私は・・・・というと、数多いタロットなどのセッションを通して意識体の読み取りはしていますが、表情、外見からの読み取りは甘かった、という気づきが大きくありました。
「頑張ってるんだから」「良い人なんだから」「環境でそうなったから」
と、どうでも良い理由でそこを触れないようにしてきたと思う。
外見にチャチャを入れる、というのはタブーだと子供の頃に思ってしまったのだろう。
美人、ブス、のジャッジも「してはいけない」と思ってきた。
でも、女性性や男性性が死んでることも、顔や体のたるみも、死んだ目も、逃げ腰のからだも、肌の荒れていることも、諦めて見栄えもしない服を選んでいる人生を選んでいることも、事実であって、「差し引く要因」ではないのだ。
それを指摘することも「無慈悲」ではない、「慈悲」なのだ、と。
大きな気づきを数分のファインダー覗きで知りました。
しかし、なんちゃってカメラマンは、楽しかったですね。
必要な貴重な機会でした。