「neutral」で表現したかったこと

卒業研究として自分の作品集(展覧会図録)を作りました。

その制作を終えて思ったことなどツイッター等でぽつぽつと言葉にしてはいましたが、きちんとまとめておきたいなと思ったので、今更感はありますがここに書こうと思います。

自分の作品で卒業研究をやろうと思い立ってから、制作期間はおよそ8カ月でした。それまでにぼんやりと表現したいことのテーマのようなものはありましたが、就職活動が重なったこともありきちんとやり始めたのは4年生の6月頃からでしょうか。

この卒業研究を通して、わたしは周囲の人たちに「写真をやっている人」という認識を植え付けてしまったかもしれませんが、わたしはイメージを具体化させるためにカメラという道具を手段として用いているだけであり、写真の技術やカメラの知識はほぼありません。

それでもわたしが写真を撮る理由。写真と言葉を通して表現したかったことを、卒業研究というかたちで表現・発信することができました。

担当の教授やきっかけを与えてくれた方には心から感謝しています。

テーマは「neutral」でした。

ニュートラル=曖昧、くすんだ、中立の、などといった意味をもつ形容詞。

生きていく中で曖昧になっていく記憶、それでも消えない感覚。

忘れたいことや忘れられないこと、忘れたくないこと。どれに当てはまるのかも分からなくなってしまった感情。自分の意志とは無関係に薄れていく記憶の景色。

そんな「せつなさ」を表現したものです。しかしこの「せつなさ」は決してマイナスの意味をもつものではなく、凛とした姿勢、物寂しげな中にもどこか強さを感じるような、そんなイメージです。

図録の中や発表、試問などではあまり述べなかったけれど、第1章は家族、第3章は恋愛、というような感じでした(きっと見たひとは分かっていただろうけれど)。

この卒業研究は、もちろん卒業研究として単位をもらうために制作したものではあるけれど、わたしにはそれ以上の意味があったと思っています。

決して誰かのために作ったものではなかったけれど、担当の教授には泣きそうになった、もう少し推敲を重ねれば出版できる、などというお褒めの言葉を頂いたし、後輩は目を潤ませながら「写真のことは分からないけれど、(utatane)さんの作品は優しくて好き。感動しました」と言ってくれました。

制作中から応援してくれていた友人も、読んだあとわざわざメールを送ってくれました。

厳しいかもしれないと覚悟していた副査の教授にも「伝えたいことが伝わってくる。構成がうまいのかな」と、まさかのお褒めの言葉を頂きました。

わたしは、この図録を読んだ人が、わたしの作品をみる、ということに加えて、その鑑賞者自身の問題としてとらえ、感じてくれたらいいなという想いをもっていたのですが、結果としてこうして鑑賞者の心を動かすことができて、本当に人生で最初で最後の、良い作品集(図録)ができたと思います。

はじめは作品に重きを置いていて、解説の部分は後付でもいいやと思っていたのですが、最終的に力を入れたのはやはり文章の部分でした。「文章で表現する」ことは昔から好きだったので、そういう意味では自分の持っている力を最大限に出せたかなと自負しております。

正直、しんどい作業でした。常に自己と向き合い、戦い続けておりました。途中、こんなことを言いたいわけじゃないと投げ出したくなったり、やっぱり以前のテーマ(広告デザインなど)でやればよかったと後悔しかけた時期もありました。
自分を客観視するとはかなり酷であり、向き合わなければならないことが多すぎて、これが終わってしまうとわたしはどうなるんだろうという思いもありました。

作品は、正直もっと時間をかけて自分のイメージに近いものを撮りたかったなという部分はあります。しかし全体としては、わたしの表現したかったことをすべて詰め込むことができました。

悲しむことしかできなかった出来事も、これを通して違う在り方を見つけられたような気がしているのです。

きっともう、こんなことはしないと思います。

この大学に入って、この学科で学んで、このゼミでしかできない表現ができて、本当に良かったです。

全てが繋がっています。

「忘却への途、祈りは永遠の青へ」

utatane




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