女子高生の死生観

中学生時代の私には俗に言う「生きるモチベ」が無かった。
私はこのために生きている!これがあるから生きるのが楽しい!そう胸を張って言えるもの、とこれを定義した時、そんなものを持ち合わせてはいなかった。
推しはいた。しかし、当時の私にとって推しは生きるモチベというより、これが無くなった時が私が本当に死ぬときだ、と胸に秘めていた対象だった。その推しが30歳になるまでに死のうと思っている、と雑談で話していたのを聞いて、そんな大人がいるなら自分ももっと楽に生きて良いなと思ったものだ。いつか死ぬこと前提で、自分を乱暴に扱うことで安心しようというのである。
病んでいる中学生がやっていそうなことを一通りはした気がする———多額の出費が必要なこと以外。けれど安心しようと手を染めた行為達は、実際は自分が生きていることを実感し、それを気持ち悪く思うためだけにあるものだった。それでもやめようと思えなかった。自分は死なないうちは、生きていると思いながら生きなければどうしようもなかったから。なぜかなんて分からなかったが、とにかく生きていなければならない使命感だけが私を縛り付けていた。

それから少しの歳月が流れた。病まなくなったわけではないが、少なくとも生きていたいと思えるようになった。自然発生的にそう思えるようになったのはひょっとして久しぶりだったかもしれない。

そんな私でも、今になってなおやめられないことがある。雨の日の誰もいない歩道橋の上や、夜の裏路地のしずかな電灯の下———そういう場所を探しては暫く突っ立ったりして、周りに誰かの気配を感じるまで自分は誰にも所在を知られない、今私が生きているか死んでいるかは私にしか分からないのだといった気分にすこぶる浸ること。
とにかく一人になりたい。心の底では誰もが私を受け入れていないのだ、そう思うたびに震えが止まらない。それは今も変わっていない。
一人が好きなのだけれど、それでいて、私は人と話す事が大好きだから、誰かがいなければ生きていけない性分だ。こうして読者の皆さんにも、こんな自語りをひけらかしてしまっている。全てはおしゃべりの延長線上で、けれどこの文章を書く裏で私は世間知らずな高校生の一端として、このちっぽけな脳を回して世間体を一生懸命に気にしながら書いている。
要約すると、私は一人でいたいことと一人ではいられないこと、そのコンフリクトを抱えて今日まで生きてきた。それが、私にとって死と生の大きな分け目だ。
一人になるか、誰かがいるか。

今回のテーマで書くことにした所以について話そうと思う。最近、久しぶりに病んだので、もし今死ぬならどこで死のうと思うか自問自答してみたら、中学生の時からずっと変わらない、「夜の海」だなと思った。
私がもし今夜の海に行ったら死んでしまう。
つめたい中で息も出来ず苦しくもがきながら、どこまでも落ちて死んでしまえたら、跡形もなく消え去ってしまえたら、それはどんなに幸せなことだろうと思ってしまう。誰も私の亡骸に感化されて涙を溢したりしない、幸せな話である。下手にお葬式に出て、私と生前そんなに関わりもなかった癖に勝手に泣きながらお線香をあげられても私は嬉しくない。泣きたい人だけが私の遺した物を見て泣けばいい。もはやそんな人がいる時点で私の人生は幸せでしたと断言してもいい。
そういうわけで、私が1番死ぬに良いと思っているのは海なのだ。だからもし夜の海に出かけてしまったら、私はどうなってしまうのか、怖くて覗いたこともない。前にも書いたが、私は今死にたく無いのだ。けれど本当に夜の海になんか行ってしまえばもう、自分の意思だなんて関係なくなってしまう。私は死にたくなるんだろう、情緒的な何かに犯されたまま。

しずかで、ひとり。私が好きな場所。私が最期にいたい場所。
そこは私を曖昧にするフロンティアなのだ。

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