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『科学大観』


茹だるような夏の日、久し振りに生家に帰ると、上がり框から居間へ、居間から床の間へと、明かりを点けていても何か暗いものがうねっている。干からびた母は納戸の奥に座っている。御母堂とは他人の母親への尊敬語だから私が言うのは変だが、なるほど、痩せてはいてもがらんとした空洞を内に抱えたお堂のようだ。母と短い言葉を交わした後、暗くうねるものに突き動かされて、私は屋根裏の物置に入った。

小さな天窓から漏れる光だけが頼りの空間。ふと片隅に眼をやると、そこには埃にまみれた古い雑誌が積んであった。母が昔、幼い私と中学生の姉のために購読してくれた、ザ・サイエンス・グラフ『科学大観』。二十冊くらいあるだろうか。思いがけない再会に、時間はしゅるしゅると蚊取り線香の渦巻の中心に向かうように巻き戻され、子どもの頃の時空に繋がってゆく。

魚貝特集             電気と通信特集     昆虫特集

表紙にフーッと息を吹きかけると埃が舞い上がる。残る埃を手で拭い、「交通」特集号の表紙をめくる。すると、密林に立ち込める霧の中から探検隊の前に出現した幻の古代都市のように、小松崎茂の描く空想画の未来都市が見開きいっぱいに現れた。
 
当時としては超モダンなビルディングを背景に、原子噴射式の赤いスポーツカーが、楽しそうな笑顔の男女を乗せて走っている。中空にはモノレールのサザーン・クロス号が走り、その上空にはポリスマンが乗った円盤型の空中ステーションが浮かんでいる。

画:小松崎茂

久し振りだね。どうしていた? 岩盤に深い亀裂が入り、峻険な岩山が聳え立つ空想画の月面から上昇するロケット。その遥か遠くの群青色の宇宙に浮かぶ地球。「天文と気象」特集号の表紙絵から、きみは何十年も前と変わらぬ親しみを込めて私に話し掛けてくれる。私の中に幾重にも折り畳まれていた沢山の過去の光景が、ぱらりぱらりと目の前に繰り広げられて、今初めて私は気付く。記憶の中のすべての事物の影の部分と夜の闇のすべてに、いつもきみが潜んでいて、私をじっと見ていたことを。

天文と気象特集
機械と道具特集

私は科学大観の他の号を次々に手に取り、表紙絵や折込みのグラビアを眺めた。「機械と道具」特集号の表紙には、映画の『禁断の惑星』に出ていた古典的なロボット・ロビーの絵。かつて胸をドキドキさせて見入った恐竜の空想画は「両棲類と爬虫類」特集号。 原始両棲類のドリコソマ、カコプス他。原始爬虫類はお馴染みのステゴザウルス。まだ小さい鰐の先祖を襲い、まさに食い付かんばかりのゴルゴザウルス。後にアパトザウルスと呼ばれるようになるブロントザウルス。

両生類と爬虫類特集

銀河の渦から灼熱の火球が生まれ、徐々に冷えて青い星になるまでの十二段階の地球が、螺旋形に配置された「地球」特集号の表紙絵を見ているときに、私は更に気が付いた。かつて眼にして私を虜にしてから、私の中の夜と影の部分から妖しい極光を放って現れてきたこれらのイメージが、これらを私に与えてくれた母から私を奪っただけでなく、母の体内を食い破り、がらんどうの暗いお堂にしていったことを。

地球特集

褶曲山脈と構造山脈と準平原の図は、母の腹部内臓を食い破って勝手に造山運動を繰り返し、地球の対流圏、成層圏、電離層のイメージは、母の胸郭を抉り、大気圏から寂しい風を吹き込んでいった。 ラジオ体操をする男の子と女の子。「保健」特集号の表紙絵を見ていると、懐かしの「健康優良児」という言葉を思い出して笑ってしまう。だがこれらが、時間をかけて我が子を喪失してゆく母の頭蓋を空洞にしてゆき、代わりに深い喪失感で満たしたのだ。

保健特集
動物特集

「動物」特集号の表紙絵では、わが子を殺されて怒り狂った母親象が、牙を剥いて足掻く断末魔のベンガル虎を今まさに踏み潰そうとしている。しかし、虎をも踏み潰す巨大な母親象の胴体はがらんどうで、中には闇が詰まっているのだ。私はこの母の空洞を、母の闇を、そして悲しみを、静かに見つめ、抱え込んで生きて行かなくてはならない。今となっては私に出来ることは、それくらいしか無いのだから。

下で呼ぶ声が聞こえる。あるだけの巻を抱えて屋根裏から納戸に降り、吊り下げ式階段を天井に収めた。明日で盆休みも終わりだ。




*『科学大観』:昭和30年代、世界文化社から刊 行された少年少女向け科学雑誌。別冊を含め全26巻。 鳥類/植物/昆虫/人体/人類/作物/園芸家卉/衣・食・住/電気と通信/交通/熱・光・音/応用化学/地下資源/実験と観察/科学史など豊富なラインアップ。 レトロな魅力の写真や図版が満載である。                                  



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