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— M・T君に ― 「てんぎゅうをとりにいこう」 きみがそう言った夏休みに ぼくらは残忍なハンターになる もくもくと青空に湧く入道雲 稚魚の群れが回遊する島の海を ぼくらは毎日飽きるほど泳いだ 陸に上がって濡れた体を拭いても 蝉の声の合唱に囲まれたら すぐに大粒の汗が吹き出てくる 湿気た藪に羽虫の群れが忙しく舞い 麦草の上を黄金虫が飛んで行って ぼくらの行く先は斑猫が道案内 草叢から蝮が這い出て来ると
国道脇の歩道を歩く。左手には葛のフェンスが続いている。道路の反対側に並ぶ家と家の間に海が見える。金網を乗り越えて、垂れ下がる葛の葉叢を風が撫でて行く。風の去った先に、ふっと母の微笑む顔が現れて消えた。 丘の斜面を葛が這い登って行く。緩やかにカーブしながら上行するアスファルト道路の、ガード柵の白いパイプの間から、若葉を従えた葛の蔓先が幾つも覗いている。麓の畑で草取りをしている祖母の記憶が蘇ってくる。 山間の作業小屋の外に、夥しい数の葛の葉に覆われて、墳墓のように盛り上がった
陸橋 オレンジ色に染まったミカン畑が後方に去って行き、セイタカアワダチソウの群れが現れてはまた後方に去って行く。バラック造りの石材屋の前を走り過ぎて、車は陸橋の坂を登って行く。坂の上には青空とちぎれ雲。島の山がちょっとだけ頭を出している。後下方に走り去る落葉樹の枝と黄色い道路標識。車は陸橋の頂きに達した。一瞬の無重力。長い下り坂の先で道路は左にカーブしている。白いガードレールのすぐ向こうには海面が広がり、車はさながらジェットコースターのように海を目指して下って行く。ブレー
蛸壺 入江を囲む堤防沿いの道に 蛸壺がたくさん積まれている 海の底で蛸を待っていた 黒い洞をこちらに向けて 今は何を待つでもなく たまに鳥が降りて来たり 猫が中を覗き込んだり 素焼きの陶器だと思っていたら 蛸壺はプラスチック製だった 表面に小さな藤壺が びっしり付いていた 秋晴れ 朝、玄関のドアを開けて空を見上げた。雲一つ無い青空だ。戸外に出て雲を探した。少なくとも空の北半分には一片の雲も無い。午前の仕事を終え、昼休みにホームセンターの駐車場で雲を探
トンネル 車は山の中腹のバイパス道路を走っている。緩やかなカーブに続くトンネルに入ると、前方の暗がりからオレンジ色の照明が次々に現れて来る。しばらく走ると眩い半円形の一部が見えた。半円形がどんどん大きくなる。その向こうには光る海。水平線が僅かに右に傾いでいる。たちまち半円形は最大に。車はトンネルを抜けた。眼下に島と島を繋ぐ紅白柄の二つの送電塔。その内側の少し遠くに 別の島々を繋ぐ白い吊橋の二つの主塔。スケールの大きな二重の門だ。水平線の傾きが元に戻った。 ランプウェイ
女郎蜘蛛 気が付いたら、目の前に女郎蜘蛛がいた。紡錘形のお腹に赤と黄色と緑青色の横縞。背の高いカイズカイブキの生垣の樹間に、脚を広げて下向きに静止している。見ると斜め上にもいる。頭のすぐ上にもいる。腕に触れる枝にも。腰の左右の枝にも。後ずさりして見回すと、生垣の至る所に蜘蛛の巣が張ってあり、女郎蜘蛛が獲物を誘っている。通り抜けるのは止めよう。向こう側ではコスモスの花が風に揺れている。 蝿捕蜘蛛 ツツツ、ツツツツツツツ。黒い点が壁を這い登って行く。ツツ。いっとき静止し
トキエは泣いている。薄暗い納戸の奥の、紅い鏡掛を開いた鏡台の前に座り、泣きながら化粧をしている。「おかあちゃん」 幼い私はトキエに纏わり付いて、その名を呼び続けている。戸外から蜜柑畑に行く父の呼び声が聴こえて来る。町育ちのトキエには馴染めない農家の日々と、父への精一杯の抵抗。「おかあちゃん」 私はいつまでも呼び続けた。 まだ日差しの強い秋の日に、私はトキエに連れられて何処かの保養地に向かっていた。トキエと私は手を繋いで列車に乗り、手を繋いで畦道を歩いた。見上げると、帽
茹だるような夏の日、久し振りに生家に帰ると、上がり框から居間へ、居間から床の間へと、明かりを点けていても何か暗いものがうねっている。干からびた母は納戸の奥に座っている。御母堂とは他人の母親への尊敬語だから私が言うのは変だが、なるほど、痩せてはいてもがらんとした空洞を内に抱えたお堂のようだ。母と短い言葉を交わした後、暗くうねるものに突き動かされて、私は屋根裏の物置に入った。 小さな天窓から漏れる光だけが頼りの空間。ふと片隅に眼をやると、そこには埃にまみれた古い雑誌が積んであっ
秋になると、川堤をびっしりと覆う葛の茂みは、セイタカアワダチソウとススキの求愛を受ける。セイタカアワダチソウはあちこちで葛の茂みを下から貫き、空に向かって茎を伸ばし、黄色い花冠を風に揺らせて葛の気を惹こうとする。それに遅れを取るまいと、ススキの群れも銀色の穂を伸ばしてくる。だが葛は、春から夏にかけて茂みに棲んでいた虫や百足や蛇や、迷い込んで来た犬や猫やヒトから零れた夜の呟きを捕獲する作業に夢中で、セイタカアワダチソウとススキの試みは徒労に終わってしまう。 夜の呟きに触れるこ
頑丈な鉄骨で構築された四角柱の塔が立っている。錆びた梁が上から下までを六つの立方格子に区切り、東側の面を太い配管が真っ直ぐに上行し、頂上で鋭角に折れ曲がって塔の中心を下行すると、やがて漏斗のような物体がそれを受け止める。海辺のセメント工場はとっくに稼働を止め、臓物めいた装置を内部に支え続けた塔も死んでしまった。夜になると、黒々とした塔のシルエットの天辺に紅い灯が二つ、中腹と下部に二つずつ、さながら亡霊の目のように点灯し、眼下のJR駅や国道を走る車を夜警のように見つめている。
山の斜面の家と家の間の、曲がりくねった歩道の裏側を下りて来た暗渠は、海岸線の国道脇に立つゴミ収集ステーションの手前でコンクリートの蓋が無くなり、幅狭な水路に変わる。だがすぐにアスファルト道路の裏側を横切り、海辺の家と家の隙間に開口する。流れ落ちる水が引き潮の砂泥に浸み込み、庇の影がその上に落ちる。左右のコンクリートの縁はもう少し続き、庭先の海岸堤防の開口部で終わる。石積み造りの突堤が湾曲しながら海へ伸びて行く。遠くに島が浮かんでいる。
アスファルト道路の表面に、蛇のような黒い波線がひとすじ、進行方向に沿って横たわっている。近寄って見ると亀裂の補修痕のようだ。指先で表面に触れてみる。ゴムのような素材だがとても固い。歩いて行くといろんな形の補修痕が次々に現れて来る、対向車線には道教の呪符みたいなややこしい模様のものもある。 「街を歩いてもアスファルトに走る無数の亀裂から滲み出てくる闇を見つめるだけだ」 遠い大都会の街に住んでいた青年の頃、ノートに書き留めていた言葉。今は海辺の町の路上で補修痕を見つめている。