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スピリチュアルな痛みについて②

こんにちは、Uraraです。

昨日に引き続き、
今日も「スピリチュアルペイン」について
お話していきたいと思います。

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昨日は、緩和ケアでは患者さんの苦痛を身体的なものだけではなく

1.身体的苦痛
2.精神的苦痛
3.社会的苦痛
4.スピリチュアルペイン(霊的苦痛)

という様々な観点から、全人的に丸ごと捉えようとします、ということをご説明させていただきました。

今日は、日本の緩和ケア領域で有名な村田久行先生の理論(通称、村田理論)を使って、もう少し「スピリチュアルペイン」を噛み砕いてみます。

村田理論によると、まず前提として、人間というのは

「時間」
「関係」
「自律」

の3つの側面に支えられた存在だとされています。

「時間存在」としての人間というのは、過去に経験した様々な出来事をとおして、未来への希望や目標ができ、それに向けて今を生きている姿。

(いつか家を建てたい、こういうところを旅行したい、こんな仕事をしてみたい、といった夢に向かって生きている状態)

「関係存在」としての人間というのは、家族や大切な人など他者との関係性の中で自分の存在意義を感じる姿。

(父として、母として、といった家族の中での役割を果たすことで自己価値を感じたり、職場で人の役に立つことで存在価値を感じている状態)

そして「自律存在」としての人間というのは、自分ひとりで自由に様々なことができている姿。

(身近なことでいえば、食べたり排泄したり、歩いたり身体をきれいに保ったりといった、自分で自分のお世話ができている状態)

こうした3つの柱で「自分」という存在が成り立っていると仮定してみると、病気などでその柱のどれか一つでも崩れてしまうと、人間として「生きる意味」や「存在する意義」までもが揺らいでしまうわけで。

その結果、「スピリチュアルペイン」が起きると説明されています。

つまり、

「時間存在」としての自分からすれば「将来」が
「関係存在」としての自分からすれば「他者との関係」が
「自律存在」としての自分からすれば、「自律性/自立性」が

失われてしまった苦痛を、「スピリチュアルペイン」と呼んでいるのですね。

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ちょっと理論を使うと堅苦しくなってしまったかもしれませんが、でも私はこれを知ったとき、「なるほどねぇ〜💡」ととてもスッキリしました。

「スピリチュアル」なんて聞くと、なんか怪しいような、もしくは宗教的な何かかしら、と思われそうですが

「人間としての存在価値」や「生きる意味」をなくしたとき、というのは、実は病気でなくても、人間、何か人生の中で大きな挫折や絶望を味わったときに、こうした痛みを抱えるものではないでしょうか。

私は普段、緩和ケア病棟というところで働いているので、がんという病気によってこうしたスピリチュアルペインを抱いている患者さんを目の前にすることは多々あるのですが、

それでもそれを口に出して訴える方は、少ないです。

そもそもこうした苦痛を自分が感じている、と意識していない方もいますし、意識できていたとしても言語化ができなかったり、人に伝えることをためらったりする方もいらっしゃいます。

そこは、普段から患者さんとどれだけ信頼関係を築いて、こうしたとても繊細な心のうちをさらけ出していただけるような存在でいれるか、にかかってきたりもするのですが。

でも、こうした心理的なハードルを乗り越えて、Uraraに「もう生きている意味がない」「早くあの世に逝きたい」と訴えてくださる方もおられます。

そんなとき、私はどう対応しているか。

***

そもそも私の心の立ち位置なのですが、

「あなたは時間存在でも関係存在でも自律存在でもありません」

という前提に立っています。

語弊を恐れずに言えば、村田理論を全否定!?です(笑)

いえ実際は、村田理論を最大限に尊重した上で、あえて否定してみる、というか。

先ほどの人間存在を支える3本の柱に横たわる大前提というのは、こういうことかなと思うのです👇

時間存在:過去から未来に向かう時間軸に沿って生きている、という前提。

関係存在:他者の存在があってこそ、自分の立ち位置が見つかるという前提。

自律存在:自分自身の身体は、自分でコントロールできる、という前提。

これらの前提自体を、「ほんと?」と疑ってみるのです。

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え〜っと、

私の意図するところを、もう少し説明したいのですが、またしても長くなってしまいました🙇‍♀

ということで、また明日、続きをご説明させてください(こういう話題にはつい熱くなって語ってしまう…)。

ご興味のある方がいらっしゃるのかは分からないのですが😅、もう少しお付き合いください🙏

それでは、また♡

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