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デジタルガーデンを再認識する

デジタルガーデンという概念がある。自分の解釈は以下のようになる。

スマホやパソコンでとったメモやノートなどのデジタル情報を、庭の管理になぞらえて定期的に手入れ(修正や見返し)をして、いつまでも使える情報資産として育てましょう。と説く概念。

デジタルガーデンの泡沫の意訳

最近、倉下忠憲さんの「考えの育て方: 知的生産のデジタルカード法」という本を読んだ。カード法という梅棹忠夫さんが著書「知的生産の技術」で語った思考法を、倉下さんがデジタルなツールで実践する過程が描かれている本だ。

その中で語られる倉下さんが陥ったカード法に対する認識の誤りの話が、クリティカルに心に刺さった。

カード法は発想法ではない

倉下忠憲著:「考えの育て方 知的生産のデジタルカード法」より

そういった致命的な認識の誤りを自分も犯していないだろうか、と。

知的生産の技術というトピックに多大な関心があって、特に先述したデジタルガーデンという概念が大好きだ。デジタル情報を少しづつ育てていくというのが、植物を育てる事が好きな自分をグッと惹きつけた。デジタルな情報たちも現実の植物の様に、手入れをして育てて良いんだという気付きがあった。

だけれど、デジタルガーデンを知ってObsidianというリンク型のデジタルノートツールで実践してみるも、全くデジタルガーデンを初めて知った時に見えた、いつまでも活用できる情報資産というものに届いていない感覚があった。

そして「考えの育て方」を読んで、欠けていたピースが埋まった。

僕なりのデジタルガーデンには、目的意識というか情報資産たちの行き着く先・出口が欠けていた。

端的に言うと、何に情報資産を活かしたいのかという視点が抜け落ちていた。

僕であれば、文章を上手く書きたい、それが心からの願いでデジタルガーデンで成長していく情報たちに望むことだった。


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