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模倣

この記事もまた、しばらく経つとなんだか恥ずかしくなってアーカイブに戻すのかなぁと思いながら今この文字を打っています。
部屋にいるとどうにも色んなことのやる気が起きず、中秋の名月と言われたあの日も私の視界には月ではなく見慣れたシーリングライトがうつっていました。
昨日から風も冷たくなり、夜は秋の音が聴こえ始め、私が好きな夏の匂いは目にも留まらぬ早さで夜に吸い込まれていった気がします。

夏には撮りたかった写真が沢山あった。
夜の海辺で浴衣を着て手持ち花火をする女性のポートレートや波打ち際のラムネ、白いワンピースに身を包んで麦わら帽子を被った女性、セーラー服を着て昼間の海を歩く学生、などなど。
去年から撮りたいものだけが積もっていく。

すべてどこかで見覚えのある模倣品

最近写真がよく分からなくなってきた。
私は、自分が素敵だと感じた作品を真似ることは悪いことではないと思っている。もちろん完全な、いわゆるパクリ作品を展覧会やSNSにあげることは盗作であり、いけないことだが、自分が作りたいと思う作品に近づけるために構図のとり方やレタッチの仕方を参考にしつつ練習として真似て撮ってみることは全然ありだと思う。そこから新たな発見があり、新しいアイデアが湧くこともあるだろう。
しかし、最近私が撮りたいと思うものは全て何かの模倣であるような気がしている。あんな写真が撮りたい、ああいったモチーフのものが撮りたい、全てSNSで見たものなのだ。嫌気がさす。
自分の独創的な発想すらない。気持ち悪い。

写真を撮っている自分もよく分からなくなってきた。素敵な風景や綺麗だと思ったもの、残しておきたい気持ち、大切な人、そういったものを残すことが出来るのに惹かれ、始めたカメラなのに、SNSに載せることで自己満足している自分がきもい。誰かに自分の撮ったものを見てもらいたい!感想を聞きたい!この気持ちは悪いものではないが皆に見せるために、いいねを貰うために、写真をやっている訳では無い。フィルムを現像し、データをもらってすぐにSNSにのせる自分が本当に嫌になった。それでものせた写真が褒められるととても嬉しい。矛盾している。

私は、写真を撮ることは好きだけれど、あくまで写真に夢中になり過ぎないようにするように心がけている。そもそも写真を撮る事が目的のドライブや旅行では良いが、普通の観光や遊びで訪れている場所で友達との会話を全然せずに写真に夢中になるのは違うと思っているし、サークルのライブも撮るのに夢中になって音楽を聴かないのは間違っていると思っている。絶対にこの曲ではカメラは触らない、と自分なりに毎回決めている。
意識しないようにしていても他人に褒めてもらいたい認められたい見てほしいという気持ちやいいねの数が呪縛のようで、でもその感情を消すのは人間である限り不可能な気がして、難しい。
本当に写真が好きで自分の感情だけを満たす為にやっている人はこんな事気にすることもないんだろうなと思ったりもする。じゃあ他人からの評価を気にしない人が真の写真好きかと言われるとまたそれも違う。
正解が分からない。そもそも正解があるかも分からないが。
最近はそんなことばかり考えている。いっそスマホを壊して欲しい。自分はスマホに囚われすぎている気がする。

こうやって考えている間にも時間は進むんだよなぁ。こんな悩んでる暇があったらレタッチの練習でも星の撮り方の勉強でもドラムの練習でもしろよって感じ。

今も部屋を照らすシーリングライトの光は雲に隠れる気配もありません。

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