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音楽が世界を救う本当の理由〜イマジンの続きを始めよう〜 2019.12.10 はじめに
「音楽が世界を救う本当の理由〜イマジンの続きを始めよう〜」というマガジンを始めます。
小出しにしないとまとまらないまま時が過ぎてしまうので、マガジンを立ち上げてしまいます。長期的な展望でいます。
はじめに
時代はせっかちになった。画面をタッチして5秒、いや3秒も待たされると、イラッとしてしまう自分に驚いたりする。
矢継ぎ早に画面の変わる広告が15秒間をあっさりと奪っていく一方、どんなに美しい曲であったとしても退屈なイントロの曲はスキップをされてしまう。
産業革命以降の人間が徐々に失ってきたもの。
それは、「感じる」ことだろう。物が豊かになり便利になるにつれて、人間がするべき、しなければいけない事が激減した。
難しい作業は機械化し、それを操る事も次第にコンピューターに代わり、今後はそのメンテナンス自体もAIにとって変わるという。
人間にとって、これまで大切に扱われてきた「感性」という曖昧なものも、不確かで正確性を欠くものの様に扱われ、いよいよ人間ゆえのアイデンティティも失われようとしている。
日進月歩のテクノロジーが行く昨今。得体の知れなかった人間そのものが暴かれる中で、私たちの「感じる」という能力が次第に衰退しているのは、確かだろう。
今の私たちは、自らで「感じている」のではなく「感じさせられている」。
そんな自覚を持っている人が一体どれだけいるのだろうか。
私自身、少しずつ不感症になっていることに気がついたのは、自分の声に納得がいかず、音の真実を探る中で、徐々に、ゆっくりと音の事を知る事ができたからだ。
そして、知ることによって「感じる」という感覚を思い出した。思い出してはじめて、不感症になっていたことに気がついたのだ。
その体験がなければ、もしかしたら一生、その事に気がつかなかったのかも知れない。
自分の求める歌声を探す冒険(歌声紀行)の途中で巡り合ったのは、歌声という限定されたものを随分と飛び越えてしまい、音楽が世界を救う本当の理由らしきもの。それは、ロックでもジャスでもブルース、クラシック、その他、音楽を定義するものではなく、音そのもの、音楽そのものが持っている、単純明快な真実だった。
その音の真実が、「感じる」という事に大きく関わり、感じるまでのナビゲーターとなってくれる。
人々は、音楽に何を感じ、何を信じているのか?
宗教でも国でも、人でもなく、それぞれが感じ、信じていたものの正体の一つが、音の中にある。
芸術や音楽というのは、時に、忘れていた感覚を思い出させてくれるものだ。
私は、このマガジンを通じて「感じる」ということを思い出してもらいたい。
早速、結論を言うが、それも時代の性かも知れない。
そこにたどり着くまで、いささかならぬ回り道をしなければならないし、それが決して快適な旅ではないことも予測できる。
感の良い人であれば、それだけで事足りてしまいそうではあるし、そうでない人にとっても、結論だけを知っていて損はないはずだ。
そして、それを説明するまでの道のりに、多くの人を導くことは難しい。だから、はじめに、最後に言いたいことを記しておこうと思う。
結論から言うと、音楽が世界を救うという本当の理由は、音楽そのものが教えてくれている。
音楽そのものが示していると言った方がいいかも知れない。
まず、一つの「音程を持つ音」の中には、認識できる音程とは異なる響きが隠れている。
つまり、私たちが「ド」だと認識する音には「ド」以外の音が含まれているということだ。音というよりも「響き」と認識した方が良いだろう。
それぞれの響きは、時に純粋に、時に不純に、協和も不協和も内包している。しかしながら、譲り合い、調和し溶け合っている。
一つの音でさえ、いくつもの不均衡を内包していて、そんな音がさらに重なり調和している事実。
音楽として響くことの、危うさと確かさがそこにある。
まず、たったこれだけのことの説明にさえ、とても時間がかかる。その事が、決して「快適でない旅」の理由の一つだ。とりあえず、進めるが。
世界中の人々が音楽に魅せられるのはきっと、音楽自体の均衡が、この世界そのものであり、また、個人それぞれの写し鏡であり、つまり音楽を愛するということはそのまま、全てを受け入れて響いている音楽への憧れ、そして万物の調和を願う人間という生命体の本能でないかと私は考えた。
私は、音楽というものが、様々な不均衡、不協和を乗りこえ、調和しているという真実に、とにかく感動してしまった。
それからというもの、失われていた「感じる」という感覚を少しずつ取り戻している気がする。
私は、音の、音楽の何に魅せられ。感じていたのか?
それを知って、音楽やこの世界のことが前よりも好きになった。
そんな音の秘密が、全ての源であるということを、どんな風に伝える事ができるだろうか。今は、そればかりを考えてしまう。
音楽は、音を感じ、それに身を委ね、溶け込むこと。不調和でさえも愛される音楽の懐は暖かい。
少しずつ書き始めるが、先にも述べたように、決して快適な旅ではないかも知れない。
今のところ、12くらいの項目があるが、それらをまとめる力が私にあるかどうか、私にもまだわからない。
そんな音のことを知る手がかりとなる書はこれまでにも存在するが、事実自体よりも、その解釈によって事の見え方が変わる。解釈の仕方がとても重要なのだ。
丸いものも、別の角度からは四角く見えたりする。
例えば、ギターのチューニングをしていると、6弦のE(ミ)を鳴らしているのに、チューナーにはB(シ)が振れることがある。これは、E(ミ)に内包されるB(シ)の響きをチューナーが感知したからだ。
何も知らなければ、チューナーの故障か感度不良だと思うだろう。
そのどちらも知ることで、解釈を得て、思考する。私自身、ここに記す為のさらなる学びを余儀なくされるはずだ。
こうしている間にも、「感じる」ことを奪われてしまっている人々を、私は感じている。私に対しても、同じ。
音楽は世界を変えたり又は救うことができない。
そう思っていたが、そうでも無いかも、と思うようになった。
音楽が示しているのは、紛れもなく、不調和の調和であり、共存だ。
世界平和などと声高に言うつもりは無いが、その状態を音楽が示してくれているということが、お守りのようで心強い。
絵空事ではなく、ジョン・レノンの「イマジン」の続きは、音楽の中にある。
想像の源は、感じることなのだから。