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FFXIV Original Novel: Paint It, Black #1

1.

「ぎゃっ……!」
 剣の閃きで、人間の喉から血液と同時に言葉にならぬ断末魔が漏れ出た。
 山賊と思しき汚らしい獣皮を纏った男たちが、ろくに手入れもされていないような刃物を振り回して商人たちを殺していく。
 その日、高地ドラヴァニアの空は厚い雲に覆われていた。降雨こそないものの、昼間でも暗く感じられるほどだ。ここは霊峰ソーム・アルの北側であった。そのような荒れ地の付近に集落などもなく、ここには山賊と商人以外に人間の姿はなかった。当然ながら彼らを見咎める衛兵など存在しない。商人たちが雇った傭兵たちは既に山賊たちの数に押され、死に絶えている。
 血に塗れた刃は薄暗い太陽光を反射してぬらぬらと輝いていた。山賊たちは羽車の中に隠れた商人を引きずり出して処刑――と呼ぶには慈悲深さが一片も感じられないが――を続けた。羽車に繋がれた黄色いチョコボたちは甲高い鳴き声を挙げているが、主人なき獣にはどうすることもできない。
「おい、女がいたぞ!」
 山賊の一人が女を羽車から連れてきた。周囲に散らばった男たちは一斉に二十個の瞳を彼女に向けた。
 暗い赤色の髪にわずかに日焼けした肌。周りで息絶えた仲間と同様のチュニックを着ていることから、そのミッドランダーも商人であることがわかる。顔立ちは整っており、山賊たちが彼女を『戦利品』の一つとすることは、誰が見ても明らかだっただろう。
 女は物を言わない。悲鳴も挙げずに気丈に振る舞っているものの、しかし表情は厳しく、自分の置かれた状況を理解しているように見えた。山賊の一人が縄を用いて彼女を縛る。その手際は悪く、素人じみた結び方であったため女は痛みを感じ、眉間に皺を寄せた。
 その様子を、少し離れた丘の上から窺う姿が一つ。

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「ふーむ……」
 目立たぬようその場に屈んだ姿勢のまま、余計な光を遮るように手を目の上に当てている。その灰色の頭からは兎のような耳が伸びている。立ち上がった背はそこらのミッドランダーの男よりも高いだろう。通常は森に住まうとされるヴィエラ族の女だった。彼女は腰に長剣を携え、盾と長い槍を背負っていた。その出で立ちは傭兵のようであった。
 深く鋭い翠の瞳は山賊を数えていた。きっかり十人だ。この辺りは比較的開けた土地であり、遮蔽物と言っても地形が盛り上がった丘と、まばらに生えた枯れ木くらいなものだ。
 であれば、伏兵を忍ばせていることも考えづらい。彼女の優れた視力で観察したところ、賊たちは頭脳が回るわけでもなさそうだった。
 ヴィエラの女は立ち上がった。山賊たちはその姿に気づいていない。今はミッドランダーの女と、周りの戦利品を漁ることに夢中になっている。周囲への注意は疎かになっていた。彼女にとってこの瞬間が一番の好機だった。
 ヴィエラは地を蹴った。その長い脚で大地を駆ける。灰色の、背中まで届く長い髪が風になびいて揺れた。
 最も外周にいた男が、『深緑色の外套』に気づいた時には、手遅れだった。浅黒い肌の人物は喉を震わせ口を動かし、歌うかのように声をあげた。
「いち、にーい!」
 最初の山賊の首を斬り飛ばした勢いのまま、剣が振るわれる。二人目も初めの男と同様に何が起きたかわかっていなかっただろう。胸を大きく斬り裂かれて崩れ落ちる。
「何っ……!?」
「さんっ!」
 拘束した商人の顔に触れていた男の首が飛ぶ。
 さすがに山賊たちも敵襲に気づいたようで、鉈のように幅広の剣を抜き放つ。それでもヴィエラの女にとっては遅かった。
「よーん! ご!」
 一人の腕を斬り飛ばし、くるくると回転しながらまた二つの首を飛ばした。
「ふざけんなてめえーッ!」
 勢力の半数を殺害されてなお、山賊たちの気勢は削がれない。ようやく一人が彼女に斬りかかった。ヴィエラ女は左手に掴んだ盾で剣を受ける。男の腕力をものともしない。むしろ力など最初から存在しなかったように軽く弾いてしまった。左腕の下方から剣を突き出す。彼女の剣はおそろしいほど滑らかに胸を貫いた。
「よえー! ろくぅー!」
 長い右足で男を蹴って剣を抜く。七番目と八番目の男が同時に斬りかかってくる。左右から一振りずつの凶器が迫った。
 ヴィエラは左を円盾で、右を片手に持った長剣で防いだ。力自慢と見えるこの女も、さすがに挟み撃ちとなれば力が拮抗するのか――二人がこのまま押し切ると決めて全身の力を込めた瞬間であった。
 ふ、と盾と剣から力が消失した。力が抜ける気配などなく、すぐさま消え去ってしまった。必然的に山賊たちの剣は支えを失うことになる。男たちは前のめりに態勢を崩した。
「ははははァ! 雑魚がよォ!」
 体の下に潜り込んだ態勢のまま女は笑った。いや、もともと笑みを浮かべながら戦っていた。今この瞬間に笑い声を挙げたに過ぎぬ。ゆえに不気味さが倍増した。
 折り畳んだ膝が伸びる。空中で脱力した腕が再び振るわれた。一度の空中回転で、二つの首が飛んだ。
「ななとはち!」
「ひ、ひいい……!」
 そうしてヴィエラは残りの二人に視線を向けた。さすがにここまで一方的な虐殺を展開されれば恐ろしさを覚えるものらしい。この山賊たちの中でも臆病な二人は背を向けて逃げようとしていた。
「おいおいおいおい! 逃げんなよぉ、もっと遊んでくれよ!」
 と言いつつヴィエラの女は一人に向かって剣を投擲した。その剣は綺麗に逃げる男の背中に突き刺さり、男は地面に倒れ伏した。彼はそのまま動くことなく息絶えた。
 ほとんど同じタイミングで彼女は円盾も投擲していた。その重い盾は逃げる男の膝を強く打った。血生臭いこの場に似つかわしくないほどに軽快な音が響いた。
「あがぁっ!?」
 骨が折れたのは火を見るよりも明らかだった。円盾が地面に落ち、金属の甲高い音を響かせた。それが戦闘終了の合図のようでもあった。
「じゅうー」
 そう言いながら彼女は男のそばに寄り、獣皮と鉄で作られた兜で包まれた頭を掴み、ぐるりと回した。またも軽快かつ不快な音が響き、男は死を迎えた。
 この場にはヴィエラの女とミッドランダーの女以外には死体しか残されていなかった。
 ヴィエラの女は猿轡を噛まされた女に近づき、ナイフを使って手際よく拘束を解いていく。拘束の痛みから解放された商人はほっと安堵の息を吐いた。
 しかし彼女には、目の前に現れた傭兵風のヴィエラについて全く心当たりがない。追加で護衛の傭兵を雇ったという話も聞いていない。まあ、確かめる相手は既にこの世にいないのだけれど。
「怪我ないか?」
「え、ええ……。あの、ありがとう、助かったわ。私はサラ」
 ヴィエラはあまつさえこちらの心配を口にした。少なくとも敵ではないだろうと判断し、商人の女――サラは自分の名前を名乗ることにした。
「俺はナイン。ナイン・フィアレスだ」
 ヴィエラ女も名乗った。瑞々しい唇を動かして。
 ナイン・フィアレス?
 奇妙な名前だ、とサラは思った。ヴィエラの知り合いはほとんどいない。彼らはエオルゼア――アルデナード小大陸においては希少な種族であり、出会う数も話題になる数もそう多くはない。海を超えて遥か東方に多い種族と聞いている。とはいえあまりにも『こちら側』に寄った名前だということはわかる。全くヴィエラらしい名前ではないのだ。サラは直感でこれは偽名か、傭兵としての名前なのではないだろうかと感じた。商人としての勘がそう結論づけた。
 一方のナインはサラの懸念などどこ吹く風で別のことを考えていた。
「じゃあいただくもんをいただくとするか。お助け料、百万ギルになります」
 すなわち、謝礼である。
 ナインは手のひらをサラの目の前に差し出し、頭を少しだけ下げていた。
「はあ!?」
 ナインの英雄的行動は善意、あるいは『ちょっと変わった個人的趣味、有り体に言うと暴れたいだけの闘争欲求』からのものであると考え始めていたサラにとっては寝耳に水であった。
「ばっ……高すぎるわよ!」
 無論商人としても法外な価格である。いかにナインが先程の戦闘で手練ぶりを披露していたとはいっても、良質な護衛を何ヶ月もの期間雇用できるほどだ。素直にこの提示を受け取る商人など存在しないだろう。
「それじゃあ困りますなぁお客さん。なんと言っても俺は最強の傭兵……この値段は超特価」
 馬鹿言うんじゃないわよ! とサラは憤った。先程まで山賊に襲撃され、仲間の死体がそこらに転がっていることなど頭から吹き飛んでいた。目の前のイカれた傭兵をなんとかしなければならない。自分が彼女に命を救われたこと自体は事実だ。だからこそ付きまとわれる可能性が高い。何とか説得しなければならない。
「まあ別に断ってくれてもいいけどな。この先もこいつらみたいなのが現れる可能性だって否定できないぜ」
 ナインはちょいちょいと周囲の死体を指差した。彼女の言葉は確かに事実だ。次の集落に補給に立ち寄るまで再び賊に襲われる可能性も非常に高いと思われた。
「くっ……」
「俺なら絶対にお前を守れる。この自信を買ってくれるなら、道中の護衛込みサービスしても百万は安いと思うがなぁー?」
 ナインは笑みを浮かべた。それは決して善良なものではなく、こう表現できる。『悪い笑顔』だと。
 サラは周囲の状況を再び確認した。チョコボも一台きりの羽車も無事ではあるが、人間が圧倒的に足りていない。自分の所有物でもなく、足も早くない輸送用のチョコボを操りながら次の目的地まで安全に進める自信は、心のどこを探しても見当たらなかった。
「……わかった。一旦その条件を飲みましょう」
「おっ、いいねぇ!」
「でも価格は保留! 集落に到着したら交渉する! それまで無事に護衛しなかったらビタ一文払いませんから!」
 女商人はそれでも前金は要求されるだろうと予測していた。
 ナインはふーむと考えた。即決で払ってもらうのが確実だ。この先何が起きるともわからない。隙を突いてこいつが逃げる可能性もある。
 彼女はしかし、途中で考えるのが面倒になってしまった。
「ま、いいぜ、それで」
「えっ……いや、あなたがそれでいいなら――いいのだけど」
 目の前の懸念事項が一旦片付いたところで、サラは再び周囲を確認した。山賊と商人の死体――しかも山賊の首の多くは胴から切り離された状態だ――が転がっている。血溜まりがいくつも繋がりあって、おぞましい池のようでもあった。鉄の匂いが今にも鼻に届きそうだ。彼女はその様子に身震いし「ここから離れましょう」とナインに提案した。
「あいつらの遺品集めなくていいのか?」
「……いいわよ。別に親しいってわけでもなかったし」
 そうか、と言ってナインは羽車に乗り込んだ。雇われの傭兵としては変な質問のように感じたが、特にこだわるところでもないらしい。
「んじゃ出発しようじゃねえか、雇用主殿。仲間の戻りを気にしたやつらが来る前によ」
「そうね」
 サラは手綱を握ってチョコボに指示を出した。幸い獣は落ち着きを取り戻していたようで彼女の操縦に従ってくれた。
 羽車は動き出した。ゆらりゆらりと前に向かって進み出したのだ。


2.


 ナインは羽車に揺られながら思案していた。
 時刻は夕刻に近づきつつある。彼女がサラを助けたのは昼過ぎくらいのことで、あれから数時間は経過している。その間に二度、賊の襲撃があった。二度とも三人ほどの構成でこちらを狙ってきたが、その都度ナインは剣と槍を振るって彼らを死体に変えていった。
 ナインはこの辺りの荒れ地の治安状況が悪いことをあらかじめ聞いており、護衛や殲滅の仕事を求めて高地ドラヴァニアにやってきたものだが、ここまで激しく攻撃されるとは思っていなかった。サラたちの商団は何を考えてこの場所までやってきたのだろう。普通、危険な場所には立ち入らないのが商人の――いや、一般人の感性ではないのか。まあ自分としては彼女らのような人間がいるから収入があるのだから助かるのだが、それほどに儲かる仕事があったのだろうか。そこまで考えたが、ナインは思考を止めた。
 雇い主の詮索などすべきではない。あと、難しいことを考えるのは飽きる。
「なあサラ殿よ」
「殿はいらない、慣れてないなら変な敬語使わないで」
「安全な場所まで、あとどれくらい時間がかかる?」
「…………」
 サラの背中は沈黙を選んだ。ナインも訊ねはしたものの、しばらくこの地方で活動していたこともあって答えはほとんど知っていた。この速度であれば日が暮れても到着できないだろう。ひとまず壁があって、賊の侵入を防げるほどの集落にはとても辿り着けない。
 日が暮れてはいかにチョコボと言っても羽車は進めない。獣も活発になる時間帯ゆえ、火を起こしてキャンプを張らねばならないだろう。そうなると獣は寄ってこないが人間に対しては目立ちすぎる。寝込みを襲われるのは勘弁したいところだ。
 日が暮れて十時間近く彼女を守り続けることは難しい。こちらに土地勘はなく、安全なキャンプを張れるとは思えない。
 で、あるならば。
 ナインはごく短く思考し結論を出した。
「こう何度も襲われるなら、とっとと殺しちまった方が早いと思わねえか?」
「……どういう意味?」
「連中のアジトを探して殺しに行くのさ」
「馬鹿言わないで、そんなの非現実的だわ。それにどうやって彼らの拠点を見つけるって言うの?」
「あいつらが残した足跡辿れば一発だぞ」
 ナインは親指で羽車の後方をちょいちょいと指した。ここから見ると随分小さくなったが、虚ろな目を晒して転がる山賊の死体があった。
「日が暮れる前なら俺にはできる。キャンプするのも難しい、羽車を進めるのも難しい。ならぶっ殺しちまった方が早いだろうが」
 いくつも重なった木箱の向こうに赤毛が揺れている。
「私を置いていくって言うわけ?」
「ああ? んなことするわけねえだろ。お前もついてくりゃいいんだから」
「は、はぁ!?」
 ナインは長外套の下、浅黒い肌を晒した胸を拳で叩いた。
「俺に任せろよ、損はさせねえから」
 根拠を示さない。サラは彼女の自信がどこから来るのかわからず怪訝に思ったが、このまま日が暮れるのを待つだけではジリ貧であるということも同時に認識していた。
 少しだけ悩み、サラは「わかったわ」と彼女の提案を受けることにした。このまま危険に向かっていくのは同じなのだから、どうせなら希望のある方に賭けるのがよかろうと思ったのだ。
「でも、無茶だと思うわ」
「心配すんな、俺は強い。負けやしねえよ」
 そう言って豊満な胸を張る彼女の自信を分けてもらいたい。サラは呆れながら自嘲気味に笑ったのだった。彼女が下手を打てば自分は死ぬことになるのである。
 ――およそ一時間後。
 ナインは宣言通りに山賊の住処を見つけ出した。荒れ地に刻まれた、素人にはあるともないとも判別がつかぬ足跡や痕跡を辿った。そうして霊峰ソーム・アルへと向かっていく丘の中腹にある、洞窟を見つけ出したのだ。入り口の近くは木の柵が荒く設置されており、松明の火がちりちりと音を立てていた。
 岩場に身を隠したサラに、ナインは頭をもっと下げるように手を振った。洞窟の入り口には二人の歩哨と見られる山賊が椅子に腰掛けていた。
 竜詩戦争が終結してしばらく経ったとはいえ、ドラヴァニアは竜や獣人の襲撃が珍しくないのだろう。飢えた人間特有の獣じみた瞳が周囲を監視していた。彼の様子から実入りは多くないと見える。こんな連中が商団を見れば、喜び勇んで襲撃に向かうことは想像に難くない。
 ナインは槍を手に取った。サラがその動きを認識した瞬間、彼女の姿はその場から消えていた。
「っらあ!」
 岩場から飛び出したナインは勢いのまま男の胸に槍を突き刺した。
「っ!?」
 もう一人の山賊は驚きの表情で固まっている。ナインは素早く槍を引き抜くと、反対側――石突をそのまま突き出した。槍の後部、先端に付けられた鉄はしたたかに男の顎を打ち抜く。男の意識が一瞬飛んだ。
 幅広の刃が据え付けられた槍が時計回りに振るわれ、男の首を飛ばした。
 一瞬の出来事だった。ほとんど音もなく、ナインは奇襲をやり遂げてしまった。サラはその様子にただ黙って驚くことしかできなかった。
「おいこら、出てこいよ、仲間死んでんぞ!」
 もっとも、次の行動には困惑しかできなかったが。
 洞窟に向かってナインは叫んだ。低いがその声は大きく、何度もこだまして入り口に帰ってきた。洞窟内ではよく反響したことだろう。
 ナインの挑発は大きな効果を示した。五人の男たちがぞろぞろと現れたのだ。
 サラには理解できなかった。彼女がなぜ奇襲を無意味なものにしたのかが。
「てめえなにもんだァ!」
 男たちは獣皮の防具を身にまとい、例の鉈のような剣を手にナインを囲んだ。中でもバンダースナッチの皮を被った、リーダーと思しき男が凄んでみせた。彼は年若く、筋骨隆々といった風貌で周りと同じく飢えて油断ならない目をしていた。
 剣呑な雰囲気の中、一方のナインはにぃと笑顔を見せた。
「この辺で稼いでる山賊はお前らだな?」
「だったらどうする……?」
 山賊たちはじりじりとナインを取り囲む。あまりの緊迫感にサラは自分の鼓動が聞こえやしないか、心配そうに胸を押さえていた。
 ナインは不敵に笑った。
「こうすんだよぉッ!」
 ハルバードのようにも見える槍が山賊頭の胸を貫いた。その場にいた誰もが槍はおろかナインの腕の動きを追うことすらできなかった。達人のごとき槍捌き。それは、あまりにも速すぎた。
 しかし山賊たちも見ているだけではない。緊張状態が強制的に途切れたことで彼らは一気に動き出した。一斉に剣を振りかぶり、ナインに襲いかかる。
 剣が殺到するが、その場に灰色ヴィエラの姿はなく。槍が突き刺さった頭の無残な死体だけが残されていた。
 彼女は一瞬のうちに空中へと跳躍していたのだ。
「っは!」
 腰の剣を抜き放ち、一振り。
 刃は山賊の顔に到達する。右頬から左頬方面へ、ざっくりと深い傷を刻み込む。一人ではなく、二人一気に切り裂いた。
「あがっ……」
 そのような短い悲鳴をあげて倒れる。
 生まれた包囲網の隙にナインが着地。まるで最初からそこに穴が生まれることをわかっていたかのように。
 ナインは山賊頭の死体から槍を抜いた。その背中を見逃すほど山賊たちは素人ではない。隙を逃すまいと一人が剣を突き出した。
 鈍色の牙は槍の石突によって弾かれた。ナインからしてみればさほど大きく力を入れたわけではない。だがまるで大海に投じた一石の波紋が大きな波へと変わっていくように、ほんの些細な力の流れが山賊の大勢を大きく崩した。そして隙を見逃すほど彼女は甘くなかった。
 いつの間にか剣から槍に持ち替えて、彼女は半分ほど体を捻った。それだけで槍に遠心力がかかり、穂先は疾風と化していた。これほどの長物であれば正確な扱いは難しいだろう。なのにナインは正確無比な制御でもって山賊の首を落としていた。体が倒れる直前、赤色の断面に白い骨がちらりと見える。
「ひっ!?」
 あれほどの勢いで振るわれた槍がぴたりと静止する。一瞬のうちに四人の命が奪われたことを理解した山賊が槍を見て防御の構えを取る。細く痩せた男は短い剣を二振り握っていた。体を守るように十字に重ね、敵に晒す体の面積を小さくしているのだ。
 ナインはそれを見、ふん、と笑った。
「攻める気はないってかぁ?」
 これまでの勢いや動きから、彼女はいつでも彼の命を奪えるように思える。それは岩場で様子を見守るサラにもわかった。それでもナインは動かなかった。槍の穂先は少しも揺れずにしっかりと敵の方向を向いているが、そこから動こうとはしなかった。
「つまんねぇなぁ! つまんねぇ! やる気なくした敵ってのが一番気に食わねえ!」
 ヴィエラは低い声で叫んだ。獣のような吠声に山賊の男は毛皮に包まれた肩をびくりと震わせた。異様な事態に頭が理解できず、歯はがちがちと鳴っている。目の前にいる人間――いや本当に人間なのだろうか――が何を言っているのか、どんな言葉を口にしているのか理解ができなかったのだ。
 目の前の敵はいつでも自分を殺せるのに、どうしてそうしない……?
「おら、来いよ」
 ナインは何も握っていない左手で手招きした。相変わらず不気味ともいえる笑みを浮かべている。その様子は弱った獲物を玩具にして遊ぶ肉食獣そのものだった。
「てめえから打たせてやる。生き残る可能性に賭けてみろ」
 この場にいる誰もが――隠れているサラでさえ――この女が何を言っているのかわからなかった。その思考回路は理解不能だった。わざわざ相手に機会を与える人間がどこにいるというのか。このような命の取り合いをしている場で。
 それからは誰も言葉を発さなかった。あれほど声を張り上げていたナインでさえも沈黙していた。霊峰から荒野に吹き付ける風の音だけが、耳障りに山賊の脳を侵食していった。彼の額から汗が流れる。何も動きがないからこそ彼の心は焦燥感に焼かれていた。じりじりと胸中の『何か』が焼けていくのを感じた。
 黒い燃えカスだけが残った、その瞬間。
「う、うわあああああああっ!」
 痩男は地面を蹴った。表情は正体不明の恐怖によって引き攣っている。明らかに錯乱していた。だから、自分の死の瞬間には気づかずに済んだだろう。
 刃よりも速く、槍が動いた。ぶすりと抵抗などなく、穂先の刃は山賊の胸に沈み込んでいた。ナインは驚くべきことに両手で槍を支え、男を串刺しにしたまま宙に持ち上げていた。なんという腕力か。
「はーっはっはっはっはァ!」
 実に愉快そうに大声で笑った。そうして槍を振り回し、男の体を洞窟の入り口の方に放り投げたのだった。
 かくしてこの場にはナイン以外の生者はいなくなった。
「ほら見ろ、簡単だったろ?」
 ナインはサラに向かって言った。商人は陰から出てきて、周囲の惨状を再確認した。いくつもの山賊の死体が転がっている。これが正々堂々正面から戦って残った結果とは誰も思わないだろう。もっとも、最初に彼女と出会ったあの奇襲も、かなり驚異的な出来事だったけれど。
「……イカれてるわ」
 サラの口から漏れたのは率直な感想だった。
 ヴィエラ女はそれを褒め言葉として受け取ったようで、ハハハと笑うのみだった。
「さあ、目下の問題は片付いた。こんな血生臭い場所からはとっととおさらばして休もうぜ雇い主サマ。今日は戦い詰めでさすがに疲れちまった」
 本当は彼女を恐れるべきなんでしょうけど、とサラは考えた。しかしドラヴァニアの荒野を抜けるためにはなんとしても彼女を味方に付けておいた方がいい。そうするのが一番だと商人としての本能が告げていた。なるべく機嫌を損ねることがないようにしなきゃ。
 でも、ナインという女は、どうして『こう』なんだろう? 彼女は湧き上がる興味と疑問を抑えることができずにいた。
 ――それから数刻。
 二人は羽車を止め、テントを張って火を熾していた。日暮れの直前、野営場所を決めてからナインは一度周囲を見回ったが、危険はないように見えた。あとは火さえ絶やさなければ獣が寄ってくることもあるまい。
 二人は羽車に積んでいた食料からアンテロープの肉を焼いて食した。調理道具もないではなかったが、二人とも料理の腕に自信がなかったのだ。それでもよく焼いた肉に塩と香辛料を振って齧り付くだけでも腹は十分に満たされた。
 サラの予想通りナインは大いに肉を食した。一人で三人前ほどの肉を平らげたのだ。前衛の冒険者や兵士は大抵大食いなものだが、今日一日の立ち回りを見ていれば運動に費やす栄養は多くても当然だろう。
「仲間が生きてたらカンカンだったでしょうね」
「んあ? ……ああわりぃわりぃ、戦ってっと腹減って仕方ねえんだよなぁ」
「いいえ、別にいいのよ。もうみんないないわけだし、食料が腐る前に食べてもらえるだけありがたいと思ってるわ」
「……ふむ」
 もぐもぐばりむしゃと肉を咀嚼しながら、しばしナインは考えた。
「どんな連中だったんだ?」
「えっ?」
「あんたの仲間はどういう人間だった? 出身は? 性格は? どんなものが好きだった?」
 サラは驚いた。ナインがそのような話題を出すような人間とは思ってもみなかったからだ。
 不思議な人。まるでナインがサラの心を慰めようとしているようにも思えて、あの悪鬼のような戦いをする人間と同じとは思えなかったのだ。少なくともこの焚火を囲んでいる間のナインは『人間』であるらしい。そう思うと安心できる気がして、サラは静かに語り始めた。
「そうね……抜け目のない人たちだったわ」
「抜け目がない?」
「ええ。商人だから当然よ。損得勘定が強くて、何に対しても対価を求めるの。何かをしてくれと頼んだら、お前は何をしてくれる? と訊いてくる感じね。それでいて自分が得になるようにさりげなく交渉を交えてくる。だからどんなに小さな頼みごとでも気をつけて……いえ、小さな頼みごとなら彼らにお願いすることはなかったわ」
 サラにとってそれなりに前のこと。まだ商人としては不慣れだった時代に、旅の買い出しをおこなった時だ。自分が向かうはずの店が全く真逆の方向にあり、他の往復が手間だと感じたサラは、何気なく他の商人に自分の買い物もついでに済ませられないかと訊ねたことがある。彼は笑顔でそれを請け負ったが、再び合流した際に、商人は手のひらを差し出した。彼は『手数料』を要求したのである。商品の単価自体がさほどでもなかったためささやかなものであったが、些細な労働であっても『対価』が必要になるのだとサラは学んだのだった。
「なんか聞くだけでもめんどくせえ感じがする……」
「あら、そうでもないわよ? 彼らは極端に『そう』だったというだけで、損得勘定で回るのはこの世界全てに当て嵌まるわ。あなただって私を助けたことに対価を要求したじゃない」
「む……ま、確かにそうかもな」
 彼女は口の端に垂れた肉汁を下で舐め取りながら頷いた。
 荒れ地の危険な商談を請けたのも、命という対価を支払うことになったのも、結局は同じことなのだ。リスクと対価。それが商人たちの世界だった。
「次はあなたの番よ」
「……俺?」
「私はあなたの要求に従ったのだから、対価が支払われて然るべきじゃない?」
 炎のゆらめきに照らされ、口の端を上げて悪戯っぽく笑うサラにナインは舌を巻いた。
 成程、サラも確かに一端の商人だったというわけだ。
 そういうことなら断りづらい。ナインは観念することにした。
「いいぜ、何でも訊きな」
「じゃあ……単刀直入に訊かせてもらうけれど、どうしてあなたはそんなに人を殺したがるの?」
「はあ?」
 傭兵は軽く驚いた。自分がそのように思われていることなど、露にも思わなかったからだ。
 殺したがっている? この俺が?
「あんた何か勘違いしてるぜ。別にみんなみんな殺したいわけじゃねえ。ただ単に――今回は皆殺しにしちまう方が簡単で、効率的だったっつーだけだ」
 自分の行動や記憶を振り返ってみても殺人衝動のようなものは見つからなかった。しかしサラにこう訊かれているという事実を突き合わせ、改めて客観視してみると確かに一般的な人間とは乖離した行動であるのは確かだと思えた。
「普通はそう考えないのよ。どうしてそんな風に考えるの? あなたの過去に何があったというの?」
 そう言われてみれば、サラの疑問はもっともだった。
 ナインは焚き火に目をやった。ぱちぱちと音を立てて枯れ木が燃えている。彼女は新しい薪木を火に焚べた。ほんの一瞬だけ火の勢いは減じたが、薪木に乗り移った火は先程よりもよく燃えた。
「特別なことは何もねえ、何もな。ああ、いや、何もねえことはねえけど、これくらいの経験は兵士だったらありふれた話だ」
「兵士? あなた兵士だったの?」
「……あんたは悪いやつじゃなさそうだから言うけどよ。俺は昔、帝国軍の兵士だったんだ」
 ナインの瞳の中で炎が揺れている。
「ガレマール帝国?」
「そ。だからなんつぅか、簡単な話じゃねえんだけど、あえて簡単に言うなら俺は属州の徴集兵だった。そんで今は脱走兵っつうわけだ」
「問題解決の方法が直球勝負なのがどうしてか、わかった気がするわ」
 振り返ってみれば納得のいく行動が多かった。私に訊ねた遺品の回収は兵士としての性なのだわ、と理解した。兵士は戦死した仲間の遺体を持ち帰ることができない時、彼らの遺品を集めて遺族に渡すのが常だ。
 死んだ商人たちのことを聞いたのも、兵士流の心理療法なのだ。戦場では精神を崩した人間から死んでいく。だから死者たちのことはこうやって対話をすることで記憶を整理し、精神状態の均衡安定を図るのだ。一般的な葬儀が死者ではなく、遺されたものたちに必要な儀式であるように。
 山賊狩りもおそらくは兵士時代に培った経験からだろう。問題は即座に解決しておくべき、と考えているのかもしれない。それは確かに軍人らしい考え方なのだろう。ああやって戦いを楽しむ素振りを見せるのは、元兵士であった経歴を差し引いても異常なことだと思うけれど。戦場での経験が彼女を少しおかしくしているのかしら、とサラは考えた。
 ナインは脱走兵で今は傭兵を名乗っているけれど、彼女には兵士だった頃の癖や習慣が残ったままなのだ。それは生き方を変えても残り続けるもので――ある種の呪いのようなものかもしれない。
「ということは、あなたはこの大陸出身というわけではないのね? ヴィエラだし」
「そうだ」
 短い返事だった。軍人流の会話法のようでもあり、あまり触れられたくない話題のようにも思えてサラは続けるべきか戸惑った。
 商人としての勘が「踏み込みすぎた」と告げていた。だからサラは別の話題に切り替えることにした。
「……じゃ、これからも傭兵を続けるつもり?」
 ナインはこれに答えなかった。焚き火に向かう顔には何の色も映っていなかった。
 炎のゆらめきが彼女の長い耳を照らしている。伸びた二つの長い影は薄明かりの中、まるで彼女の尾のように長く長く伸びていた。


3.


 翌朝。
 サラが起きると、ちょうどナインが見回りを終えて戻ってきたところだった。昨夜サラが眠る前に不寝番を任せてしまったので、夜明け過ぎに周囲の偵察を行ったのだろう。その顔は眠る前とほとんど変わらず、疲れは見えない。彼女は羽車から離されたチョコボに飼料と水を与えていた。
「少し寝る?」
「いや、いい。さっさと出発した方がいいぜ。獣が人間に仕留められた痕があった。狩人なら別にいいんだけどな、もし昨日の連中以外に賊がいたらめんどくせえ」
「でも疲れてないの?」
「一晩くらいわけねえ」
 それにほら、羽車の中で横になってるだけでも回復するしよ、とナインは付け加えた。兵士時代から不寝番には慣れているのだろうか。サラには頼もしくも、また、危うくも見えた。
 結局ナインの主張に従うことにした。
 二人は野営を素早く片付け、荷物を羽車に積み込んだ。商品を降ろしていたわけではなく、食料やキャンプの道具だけだったので十分もかからなかった。
 二人は羽車に乗り込んだ。チョコボはすっかり休んだようで、意気揚々と足を運び始めた。昨日よりも力強く前に進んでいく。
 高地ドラヴァニアの朝は霧がかっており、周囲はよく見えない。それでも街道らしき道を進むのに邪魔なほどではなく、車輪は小気味のいい音を立て、車体を揺らしながら進んでいった。荒れ地の湿った匂いが鼻に届く。街道の途中に立てられた古びた道標を目にし、サラは安全な集落までの時間を計算していた。
 あと数時間といったところかしらね。出発してからナインは一言も発していない。もしかすると車内で眠っているのかもしれないし、油断なく周囲を監視しているのかもしれない。木箱の積まれた羽車の中身は、御者台からはよく見えなかった。声をかけて確認するのは……もし眠っていたとしたらかわいそうだろう。
 荒れ地の景色が次第に変わってきた。地面には草や苔が増え、周囲には湿った岩が並び始めた。この辺りは低地ドラヴァニアにも近い。かつて学術都市シャーレアンの植民地が存在した、水と栄養に恵まれた大地だ。ソーム・アル西部の荒野も低地ドラヴァニアに近い地帯ではその影響下にあり、荒野と比べれば人間が暮らしやすい環境になっているのだ。
 例の村に立ち寄って補給を終えたらイディルシャイアに向かうのも悪くないわね、とサラは考えていた。かつての学術都市シャーレアンは植民地から既に手を引いている。いわゆる『大撤収』が行われてゴーストタウンとなっていたかの地には、冒険者とゴブリンたちが新たな都市を築いているという。少なくとも危険ではないという噂が彼女にも届いているから、第二の中継地点とするのも悪くなさそうだ。
 霧の向こう側に大きな岩が見えた。
 いや、これは岩ではない。かつて商人の仲間たちとここを通った時に説明を受けたのだ。巨大な岩のようにも見えるそれは、遺跡なのだという。想像できないほど遥か昔、かつて竜と人とが共に暮らしていた時代の遺構なのだという。
 皇都にもたらされた真実はにわかに信じがたいものだったが、こうして遺跡を目にすると確かに説得力は生まれるものだ。よくよく見てみれば、巨大な岩の遺構だけではなく周囲のいくつもの岩がかつての住居のように見えてくる。自然だけでは出来上がらないような複雑な形をしているものがいくつも広がっているのだ。
 苔に覆われた大地と岩。その細やかな草むらの中にそびえる朽ちかけた岩の塊は、今では竜も人も住んでおらず、ただ風雨に晒されて崩壊の日を待ちわびているようにさえ見えた。
「チョコボを止めろッ!」
「え?」
 突如として背後から声があがった。ナインの切迫した声は、この地の歴史に馳せていたサラの脳を一瞬で現実に引き戻した。状況は理解できずとも、彼女の声に従うべきだと本能では理解していたが、体は考え通りについてくるものではない。
 キュエエ! とチョコボが嘶いたと認識した次には、羽車の車体は傾いていた。
「きゃっ……!」
 サラは湿った地面に投げ出されたことがわかった。頬や体の側面に湿気を帯びた苔が触れ、すぐに服が水分によって侵食されていった。
 チョコボが暴れ、羽車が体勢を崩してしまったのだ。横転とまではいかないものの、何の支えもない御者台のサラは羽車の外に投げ出された。羽車の一部で手を打ってしまい痛みはするが、大きな怪我ではないことはわかった。
 サラとチョコボを止められず、羽車のバランス崩壊を許したナインはすぐさま車外に飛び出していた。霧の向こうから一本の矢が飛来してくるのが彼女には見えていたのだ。いや、正確には見えてはいない。ただ一つ、彼女にはわかった。霧の向こう側からこちらを見ている存在のことが。その襲撃者は静かに構えていたが、矢を射る一瞬だけに殺気を抑えていた。
 ゆえにナインは直前まで気づくことができなかった。彼女は悔しさを感じながら岩の影に向かった。その途中でサラの腕を掴むことは忘れていない。
 さっと岩の柱陰に彼女を隠す。彼女に怪我はないが、突然の出来事に呼吸が荒い。サラの額には赤髪がべったりと貼り付いていた。
 油断ならない相手だ、とナインは悟った。この霧の中で正確にチョコボを狙撃してくるとは。羽車の方を見やると羽車を引くべき獣の脚に矢が突き刺さり、哀れな声で鳴いている。逃走手段が潰された。
 ――ふ、と次の矢が音もなく飛来する。岩のすぐそばに矢が突き立つ。おそらく牽制射だろう。
 まだ霧は濃く、敵の姿は見えない。だが矢の射角から考えると、この辺りで一際大きな、例の遺跡の上に陣取っていると推察された。狙撃手にとっては最高の位置だ。
 対して、こちらには射撃武器が一切ない。
 反撃の手段は乏しく、サラを置いていくわけにはいかず、逃走も難しいときた。
「クソめんどくせぇことしやがって……」
 こうなればナインがやることは一つしかない。
 盾を構えて陰から出ようとした、その時。
 ひゅん、と矢が飛んできた。
「くぅっ!?」
 とっさに盾を構えてそれを防いだ。足元に矢が落ちる。
 馬鹿な、死角に入ったはずだぞ。
 こんなに早く移動されるわけがない。人間の足はそんな風にできていない。
 力強い攻撃にびりびりと腕が痺れる感覚があった。まるで近接攻撃を叩き込まれたかのようだった。
 ひぅん、と再び矢が飛来する。音を頼りにまた盾で防いだが、先程とは違って柱の左からやってきた。
 ありえない。
 ナインの頬を汗が伝う。
 危険を覚悟の上で、足元に叩き落とした矢を拾い上げる。ナインは僅かにエーテルの残滓を感じ取った。彼女はエーテルに関する才能はないのだが、矢に残った気配から何らかの仕掛けがあることだけはわかる。
「曲がる矢って何だよ……!」
 言葉を紡ぐ間に次の攻撃が飛んでくる。それも盾で受けるが、こう何度も続けられてはこちらが保たない。
 やはり当初の予定通り打って出るしかない。予定よりはずっと悪い状態になるが。
 ナインはサラに自分の盾を渡した。
「絶対に手放すなよ」
 彼女には悪いが、これで身を守ってもらうしかない。
 サラは顔を震わせながらナインの言葉に頷いた。それを見届けたナインは、唾を飲み込み剣を腰から抜いて、地を蹴った。
「らあああああッ!」
 風を切って走る。
 ずあ! と矢が飛来する。保護すべきサラではなく自分に飛んできた。脅威の認定が早い。今はそっちの方が助かるけどよぉ!
 矢を斬撃で何とか叩き落とし、ヴィエラは長い足で駆ける。前衛の疾走によって遺跡がすぐに見えてきた。この距離なら霧も関係なく、相手の姿が見える。

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 確かに、敵は岩の上に立っていた。
 堂々と長大な弓を構えている。
 髪は雪のような白と、深い海のような青の二色に彩られている。瞳は自然に存在しない鮮やかな赫色に輝いている。最も特徴的なのは白い肌の上を走る黒い鱗と、側頭部から生えた二本の角だった。
 オサード小大陸に住まうとされる、アウラ・ゼラという種類の人間だ。
 そのアウラはレンジャーらしい濃い青の軽装外套に身を包み、長弓でこちらをじっと見つめていた。女で、背はさほど高くはない。だというのに視線は鋭く、まるで目で人を殺せる化け物のようだ。ナインの背筋に冷たいものが走る。
「見つけたぜぇ、トカゲ野郎ォ!」
 彼女は叫び、自分を奮い立たせた。苔むした地を蹴り、自分の身長ほどの岩に降り立つ。その岩もまた蹴る。次の岩も蹴る。人間離れした跳躍力とバランス感覚で、ナインは遺跡に近づいていった。
 アウラはその様子を見ている。幾度か矢を放ちはしたものの、ヴィエラが剣撃で叩き落とした。
 ついにナインは敵の目の前に降り立った。そこは巨大な住居のバルコニーのようで、敵の背後の壁には窓のような穴が空いていた。
 敵との距離は三ヤルムほど。接近を許したというのにアウラの女は表情ひとつ変えようとしない。言葉を紡ぐことなく弓の弦を引き絞ったままだ。
 照準はナインの胸を狙っている。

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「何者だてめ、えッ!」
 言葉の最中に矢が飛んだ。この距離ではあまりにも速すぎる。これまでのように叩き落とすことは叶わず、ナインは何とか剣の腹で矢を受けた。衝撃で彼女はいくらか後退してしまう。
 ったく、近づくのも一苦労だぜ。予備動作すら見えやしねえ。
 心中で毒づくナインはそれでも前に進む。敵の腕や手を見逃すまいと見つめながら、左手を刃に添え切っ先を前に構え、じりじりと足を運んで距離を詰めようとする。敵は既に矢筒から矢を取り出し、弦につがえている。
 次だ。
 次に矢を放ったら踏み込む。
 装填までの時間を狙うんだ。
 だから、敵の狙いを見逃すわけにはいかねぇ。
 ゼラの女は胸への狙いを変えていなかった。表情には焦りもなく、顔も体も氷のように静かだった。
 沈黙がその場を支配した。
 風もなく、獣の声も聴こえない。無音の世界に二人は足を踏み入れていた。
 どれほどの時間が経ったか。あるいはほんの一瞬だったかもしれない。
 無音の世界に変化が訪れた。
 ふっ、と耳を風が撫で、その音を二人ともが聴いた。
 敵の気配が巨大化する。ナインはそれを見逃さなかった。
 弦は矢を押し出し、空飛ぶ猛禽となってナインの胸へと向かっていく。
「っ、らぁぁぁッ!」
 ヴィエラの足は岩を蹴る。たんっ、と小気味良い音が響いた。矢はナインの心臓を捉えなかった。彼女は姿勢を限界まで低くすることで矢を掻い潜ったのである。
 三ヤルムなど、自由に走ることができる前衛にとっては存在しないも同然だった。精鋭の戦士であるナインの一歩でほとんど顔を突き合わせる距離まで肉薄していた。
 そして剣を振るう。ナインにとってはほとんど本能のような行動であり、そこに意思と呼べるものはなかった。それが手練の条件の一つであり、考えるより先に敵を傷つける、というのが戦場で生き残る秘訣であった。実際、ほとんど達人のような速度で斬撃を放ったのだ。
 果たして、剣がアウラ・ゼラの肉を切り裂く、ことはなかった。
「っ!?」
 彼女の持つ金属製の弓が剣を防いでいた。やはり表情に変化はなく、『蝿が飛んできたので手で払った』程度の当然さで前衛の攻撃を防いでいたのだ。まるで最初からその攻撃を予測していたかのように。
 剣の斬撃を防ぐ弓の強度も強度だが、受け止めたまま動かぬアウラ女の力も大概だった。
 後衛はもっと貧弱であるべきだろ! とナインは叫ぼうとした。
 それは叶わなかった。
 弓を軸にしたままアウラが回転蹴りを放ったのだ。
「ぐぅっ……」
 何とか左腕を掲げて防御したものの、完全に受け止めることができない。斬撃を受け止められたままで体勢が整っていない状態では、満足に踏ん張ることもできない。
 ゆえに彼女は再び空中へと飛ばされていた。先程とは違い、自分の意思とは関係なく宙を舞っていた。
 また振り出しに戻される! ナインは何とか空中で体勢を整えようとする。だが、それを許すほどアウラ女も優しくはなかった。彼女は驚くべきことに、ナインに向かって飛んできたのだ。
 己の意思で跳躍したアウラにとって、ヴィエラに空中蹴りを命中させるのはさして難しいことではなく、ブーツの底がナインの腹を強く打った。重りでも仕込んであるのか、非常に重たい一撃が彼女を襲った。握力が緩み、剣を手放してしまう。肺の中の空気をすべて吐き出しながら、ナインは地面に墜落した。
「がっ……!」
 地面を無様に転がり、岩に激突する。
 地面と岩とで二度、背中を強く打った。これ以上ないほどに内蔵と骨に負担がかかっているのを自覚する。吐き出すものがないのに強く衝撃を受けたことで、吐き気が止まらなかった。
 口の中に血の味が広がる。
 久しぶりだ、こんなのは!

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「な、ナイン、大丈夫!?」
「出てくるなサラ……」
 偶然なのか狙ったものか、羽車の近くに叩き落されたようだった。自分の剣は既に手放してしまった後だが、槍は馬車の近くに置いたままだったはずだ。
 見れば少し伸ばせば手が届きそうな距離に転がっている。
 だが、その『少し』が伸びそうにない。
 全身が脱力し、手足が痙攣していた。
 悔しいことに全く動けない。
 苔を踏みしめる足音が近づいてきた。アウラの女が赤い瞳でサラを見ている。既に弓には矢がつがえられており、矢尻はサラに向けられていた。
 わずかに赤みを帯びた唇が動いた。
「商人サラ・ヘイズ」
 彼女はサラの名を呼んだ。氷のような声だったが、同時に人間らしい温かさも帯びているように思った。ナインは自分が受けている意外な印象に驚きを隠せなかった。
「な、何……?」
「サラ・ヘイズ。本名はアウレリア・ゴー・タキトゥス。ガレマール帝国諜報部、第一級諜報員が傭兵を雇って何のつもりだ?」
 サラは言っている意味がわからない、という表情を浮かべた。戸惑いからか、眼球が揺れていた。
「……一体何を言っているの? 私はしがない商人、故郷を捨てた単なるサラよ。霊峰ソーム・アルの麓で入手できる希少な薬草を仕入れて、帰るところなの。アウレリアなんて人、知らない……」
「眼球がやや左に動いた。僕は親切なので指摘してやるけれど、それは大抵の人間にとって記憶を参照する行動だ。水平方向に左。おおかた『上官に与えられた設定』を思い出しているんだろ。それと、盾の裏で右手に握っているものから手を離した方がいい。でなければ射つ」
「…………」
「さ、サラ?」
 緊張感がその場を支配していた。ナインからは盾の裏にあるサラの手など見えなかった。
 何かを握っているとして、何だ?
 短剣? 反撃の手段?
 ゼラ女が言っていることも妄言にしか聞こえない。
 帝国の諜報員? サラが? そんなことは、ありえないはずだ。だって彼女は商人にしか見えなかった。山賊の目の前で殺されかけてたんだぞ。
 何にせよ現在の状況は危険だ。アウラが口にした妄言についてはあとで検証すればいい。
 相手は専門の暗殺者か傭兵か、どちらにしてもサラみたいな素人の反撃を許すような相手ではない。
 だとすれば、目の前の雇い主を救うために自分がすべきことは何なのか。
「……んなの決まってんだろうが……」
 ナインは呟いた。か細すぎて自分でも笑えるぜ。
 彼女は全神経を集中させて腕を伸ばす。動くと思わなかった腕が、少しずつ動く。
 ――立とうと思えば立てる。勝ちたいと思えば勝てる。たとえ本当にそれができなかったとしても、意思が負けていたら可能性は欠片も残らない。
 過去の声がこだました。
 本気で願えば自分の体は大抵言うことを聞くものだ。
 槍までもう少し、もう少しだ。
 ぶるぶると震える手を伸ばし、指先がとうとう槍の柄に届いた。
 よし。
 ナインは柄を掴んで持ち上げようとした。
 ちゃき。槍が僅かな金属音を立てた。
 ほんの些細な音にすぎなかった。ともすれば無視してしまいそうなほどに、ごく小さな音だった。それでもアウラの女は反応した。
「何をしている」
 襲撃者が視線をこちらに向けた。
 俺の行動が露見した!
 こうなればもはや覚悟を決めるしかない。
 全身に力をみなぎらせ、立ち上がろうとした、その時。
「…………!」
 恐ろしいほど強い光だった。
 白く、白く、光が柱のように燃え上がる。
 その中心にいるのは赤毛の女。サラだった。
 彼女の足元の苔が一気に緑から灰に変わっていく。周囲の岩も崩れて塵に変化していく。
 ナインの盾を捨て、右手には槍の穂先のような石を握っていた。
「これは」
 彼女から発される圧力にナインは立ち上がれなかった。アウラの女もその場から退いている。青白い光は右手の石に集まっていく。彼女を中心として周囲の地面が荒れ地へと変わっていった。
 ――俺は、これを、知っている。
 古い記憶が蘇る。この状況を理解できずともナインはほとんど反射的に叫んだ。
「……『聖剣』!」
「ちっ」
 アウラの女もこの事態は想定外だったらしく、毒づいた。彼女は弦をしならせ矢を放ったが、圧力から狙いがずれたのだろうか、サラを捉えることはなかった。どちらにしても光は矢を通さなかっただろう。
「焼かれて死ね、蛮族!」
 サラが掲げた石から、光が殺到する。それは周囲の環境エーテルを吸い上げて放射する兵器。かつて『剣の街』と呼ばれた都市国家が、街の中心に据えていた『聖剣』と呼ばれる塔。そのコアとなるアーティファクトだ。
 莫大な熱量の波濤がアウラを襲おうとした。
 しかし光は彼女の命を奪うことはなかった。サラが叫んだ瞬間、女が先程放ち、狙いが逸れたと思われていた矢――それがサラの影を射抜いていた。
 これは、影縫い。
 いつか、仲間から聞いた話にあった。黒衣森で活動する弓術士たちは、獲物の死角に矢を射かけ、そこから動きを縛るエーテルを放つことができるのだと。
 ほんの一瞬だけサラの動きを縛ったことで狙いは逸れた。アウラの女は素早く飛び退いた。ついでにナインの首根っこを掴んでいる。
 純白の閃光が走る。膨大な熱量が光線となり、苔むした大地を焼き尽くす。
 光線が走った後には、塹壕のような溝が大地に穿たれ、岩が融解して赤い液体になっていた。
 ゼラ女は岩陰で安堵の息を吐いた。その様子をナインは見ていた。
 サラはアウラを仕留め損なった。その事実を確認したところで。
 ころころと何かが二人の間に転がってきた。
「閃光弾か!」
 拳ほどの大きさの、よく見慣れた兵器。金属に包まれ角張った形のそれは、紛れもなくガレマール帝国製の閃光手榴弾だ。兵士時代の記憶が思い出され、とっさに目を瞑り耳を塞ぎ口を開く。
 瞼の裏でも、強烈な光が網膜を焼いた。
 目を開いてもしばらくものが見えそうにない。それはアウラの女も同様だったようで、彼女もしばらくその場に佇んでいた。
 しばらくしてようやく視界が戻った時、サラの姿はそこになかった。『コア』のせいでエーテルを吸い上げられた不毛の白砂と、エーテル放射による破壊の爪痕が残っているだけだった。
「――逃がした」
「おいこらてめぇ、どういう状況だ」
 岩の柱に背中を預けて脱力するアウラ女にナインは問うた。
「まず『てめえ』じゃない。僕にはロクロという立派な名前があるんだぞ」
 冷ややかな赤い目でこちらを見る、アウラ。これまで殺し合ってみた印象とは裏腹に、思ったより柔らかい喋り方をする。不思議と敵意は感じない。その雰囲気に押されて、ナインは彼女に攻撃する意思を失ってしまった。
「一体どうなってやがる。サラは? どこへ行った? あいつがどうして『コア』を持ってる?」
「ご覧の通りだろうさ。サラ・ヘイズはアウレリア・ゴー・タキトゥスで、帝国の間諜で、危険な兵器の運搬役だった。それ以上の真実がお望みかい?」
 ロクロが髪をかきあげる。
 沈黙するしかなかった。
「僕は彼女を追跡するけど。きみはどうする?」
「どうって……」
「一緒に来るか?」
 数秒、胸中を確かめる。かつての戦場、アーティファクトのコア。
 考えるのは面倒だった。
 ここから二人の旅が始まった。
 長い旅が。

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宴屋六郎
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