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国家の不条理に抗う精神(番外編)-長谷川テル遺児暁子(暁嵐)・劉星の人生(後編)

 前編では、長谷川テル・劉仁夫妻の遺児暁子さん、劉星さんの青少年期の状況についての概略をご紹介しました。中編では、文革期に揺れる暁子さん、劉星さんの体験について紹介しました。後編の今回はその後の暁子さん、劉星さん,、暁子さん、劉星さんの日本へのスタンスを中心に、前回、前々回同様暁子さんの著書「二つの祖国の狭間に生きる」よりご紹介します。


暁子さん、劉星さんと日本

幼少年期

 暁子さんと日本との接点ですが、暁子さんの幼少期の日本に対する印象は、保育園の頃に周りから日本人の子、混血児と言われ、自分が他の子どもと違うと感じていたとのことです。また、小学校での愛国教育の一環として中国に侵略した日本軍の中国人への拷問、虐殺を知ったこと、周囲から小日本人、小日本鬼子となじられた際引け目を感じたことなど、(※1)暁子さんにとってある種の戸惑いを感じさせるものでした。暁子さんは、三光作戦(※2)を描いた映画で軍歌が流れた際、周りがヤジを飛ばし、嘲笑する中、理屈を超えたある種の「故郷への憧れ」に衝かれたそうですが(※3)、それでもある種の贖罪意識を抱いていたことはうかがえます。

 これに対し、劉星さんは自身の血に日本人があることを恥じることはないという姿勢であったのか、ケンカとなった際に、日本人であると暁子さんをなじった相手にやり返した様子を次のように描かれています。

 「右派分子の子どものくせに!」「小日本人メ!」
 と、相手の子が私たちを大声で罵倒した。そう言われて、すっかり弱気になった私と従妹が家に戻ろうとしたとたん、兄が家から飛び出してきて、いきなり隣家の子の顔をはりとばした。その子は頬を押さえながら、泣いて自分の家に走って行った。しばらくすると、彼女の母親が娘を連れて叔父の家にのり込み、太った手で兄を殴りつけた。兄はちっとも怖がる様子を見せず、隣家の母親を力づくで押し出そうとした。
(略)
 今まで、だれかに「小日本」というあだ名でなぶられても、口答えしたり喧嘩したりすることがなかった私は、本気で怒った兄を見て驚いた。同時に、身を挺して私たちをかばってくれたその姿に心を打たれた。

長谷川暁子「二つの祖国の狭間に生きる-長谷川テルの遺児長谷川暁子の半生-」P68~P69 同時代社

ケンカがあったその日、叔父である劉維さんは自身が日本に行ったこと、また、母親である長谷川テルについて立派な人間であるということを伝え、長谷川テル・劉仁の写真を暁子さん、劉星さんに見せたそうです。その際に劉星さんは自分の両親がどんな人物だったかを知りたいと言ったそうですが、反右派闘争による粛清もあり、今は話せないと伝えたとのことでした。(※4)

成人して

 暁子さん、劉星さんは成人し、日中国交正常化、日中平和友好条約が結ばれた後の1979年8月に日本を訪れることになります。ただ、その際の状況が日中友好ムード一色の中で行われたこともあって、ある種のまごつきがあったことも暁子さんは述べています。(※5)

 その後、劉星さんは留学の形で日本に滞在することになりますが、劉星さんは滞在中に、暁子さんを留学の形で日本に来れるように日本人の親戚に頭を下げたそうです。その背景としては劉星さん、暁子さんとも日中友好のムードとして日本に行くのではなく、日本社会の一員として日本人として生きたいという想いがあったのですが、自身よりも妹の暁子さんの想いを優先させたいという想いがあったと暁子さんは語っています。(※6)

 留学後いったんは暁子さんは中国に戻るのですが、その際暁子さんの日本に住みたいという想いを察して、もう一度日本に行ってみないかと暁子さんにアドバイスします。そのときの様子を暁子さんは次のように述べています。

 「少なくとも僕たちは半分日本人じゃないか。兄妹の一人が日本に行くのは別に、義理に反することでも、祖国を捨てることでもないだろう。自分を責めなくていいよ。両親が生きていたらきっとそう望むと僕は思う。」
 兄はしきりに私を慰めた。

長谷川「前掲」P279 同時代社

暁子さんは、劉星さん自身が日本に行きたいという想いを知った友人が諜報員としてなら口利きができるという話をきっぱり拒否をし、劉星さんが祖国という言葉の重さを知っていたことに触れた上で自身に日本行を進めたことに触れています。ここから劉星さん、暁子さんの肉親に対する愛情と絆、国家のために自分の信念を否定しない姿勢を感じさせられます。

 かくして、暁子さんの2度目の日本行となるのですが、その時はちょうど中国で民主化要求が高まった天安門事件の直前でした。そのため暁子さんは良心の疚しさに迷っていたのですが、劉星さんは暁子さんを次のように励まします。 

「日本で頑張ってくれ。僕は中国の運命とともに生きるんだ、君の分も」

長谷川「前掲」P281 同時代社

こうして暁子さんは日本の地を再び踏むのですが、日本で天安門事件を知ったとき、途方もない絶望的な感情に襲われたとして、次のように厳しく批判しています。

 私は連日の報道におののいた。そこに中国の終焉を見たような心理的恐慌に陥った。無情な鎮圧に対する憎しみが波濤のように体の中で渦巻き、鎮圧は正当な決断と主張している当局の傲慢さへの怒りが胸を焼き焦がした。私はテレビに向かい、人間の尊厳を踏みにじった戦車を呪った。「幾万の死者が出ても中国はちっとも揺るがない」と冷酷な薄ら笑いを浮かべながら話している政府のスポークスマンに、汚い言葉をぶつけてやった。

長谷川「前掲」P284 同時代社

その後、天安門広場で学生、市民と一緒に座り込みをしてた劉星さんから暁子さんに手紙が届きました。手紙の中で劉星さんは、天安門広場にやってきた人たちは誠実に生きようと決意をして危険を冒してやってきた人たちであり、信念のために命を投げ出しても顧みない勇気が尊く美しいものと思い知らせてくれた人たちでったと語っています。その上で、民主化運動は挫折したが、民主と自由のありがたさは確実に人々に植え付けられ、愚民化政策に翻弄される民ではなくなったであろうと結び、中国に生きる市井の人々への想いを語っています。(※7)

 劉星さんはその後、1996年12月30日に胃がんで55歳の生涯を閉じるのですが、(※8)誠実さに基づく一生であったと言えるでしょう。再度来日した暁子さんは、1990年に大阪経済法科大学で中国人留学生の世話をする嘱託の仕事に就き、(※9)1994年に日本国籍を取得し、劉暁嵐という名前を長谷川暁子と変え、日本で生活をすることとなります。その後は大学の非常勤講師を務め、現在に至っています。日本国籍取得に至るまでの暁子さんの人生も、劉星さん同様波乱の人生であったと言えるでしょう。

暁子さんのメッセージ

 暁子さんは、日中関係、日本、中国に存在する問題について次のように語ります。

 「故きを温ねて新しきを知る」「歴史は鑑である」という格言が度々外交舞台のセリフとして引用される。しかし、過去を克服する誠意がない限り、格言の真髄は発揮できないのだ。その格言は、自らの歴史への自尊心と理性的な行動を求めている。二十世紀半ばアジアで起こった二つの大きな悲劇としての日中戦争と文化大革命は、いずれも国民の支持という背景があった。日本人にとっても中国人にとっても、それぞれ目をそむけたい過去の一コマであったが、たとえ何かの「善良的な意図」があったとしても、善意による悪い結果が残している示唆と教訓はもっと反省されるべきではないか。

長谷川「前掲」P318~P319 同時代社

満州事変に始める十五年戦争にしても、文化大革命にしても、私たちは権力者が悪いのであって、民衆は被害者だという構図を作りたがるし、また、ある種の使命感といったことに酔いしれ、他者の意見、批判を省みる傾向にあります。しかし、それは結局自らの行為に対して責任を取らないということを意味します。暁子さんのこの言葉の中からは、私たち一人ひとりがきちんと物事に向き合うことの意味、本質を考えさせられます。

 長谷川テル、劉仁は国家にとらわれず、何が正しいかを見極めようと模索した人たちでした。その結果、中国に侵略を行う日本軍に対して投降を呼びかけることで、日本の侵略行為を否定したのです。それと同じく劉星さん、暁子さんも自分で考え、行動することの意味は何かという生き方をされてきました。これらの想いに私たちはどうするか、一人ひとりが問われていると言えるでしょう。

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

脚注

(※1) 長谷川暁子「二つの祖国の狭間に生きる-長谷川テルの遺児長谷川暁子の半生-」P26~P27 同時代社

(※2) 日中戦争の際に、日本軍の中国の民衆に対する略奪、虐殺行為を、奪いつくし、焼き尽くし、殺しつくす作戦であるとして、表現したもの。華北の中国共産党支配したである「解放区」と呼ばれる地区への壊滅を目指して行われた。

三光作戦(サンコウサクセン)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

(※3) 長谷川「前掲」P32~P33

(※4) 長谷川「前掲」P69~P72

(※5) 長谷川「前掲」P230

(※6) 長谷川「前掲」P238~P239

(※7) 長谷川「前掲」P286~P288

(※8) 長谷川「前掲」P306~P307

(※9) 長谷川「前掲」P290

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