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国家の不条理に抗う精神(番外編)-長谷川テル遺児暁子(暁嵐)・劉星の人生(中編)


 前回の前編では、長谷川テル・劉仁夫妻の遺児暁子さん、劉星さんの少年期の状況についての概略をご紹介しました。中編の今回は文革期を中心に劉星さん、暁子さんがどのように向き合ったのかについて、前回同様暁子さんの著書「二つの祖国の狭間に生きる-長谷川テルの遺児長谷川暁子の半生-」(同時代社)よりご紹介をしたいと思います。

文化大革命に揺れる劉星さん、暁子さん

 文化大革命が始まる当初、暁子さんは唐山学院大学の2年生で、教養科目の時間に、大学の図書館からロシア文学、フランス文学、イギリス文学に読みふけながらも、電力機関車の技術開発に興味を持つようになり、専攻科目に全力を向けて向かい合おうとしていたという日本の大学生と同じ感じの生活をしていたそうです。(※1)また、政治に鈍感であり、反革命とされる著作物を反面教材ということでその著作物を読んでも、その思想、主張に感動、共鳴し、なぜ批判されているのかと不満を抱いていたと述べています。(※2)そこからは、暁子さんが、体制に対する批判的精神はないにしても、世の中の流れに対してそのまま流されないスタンスを持ち合わせていたことがわかります。

 そのため、暁子さんは、毛沢東が批判した作品「武訓伝」について、深く感銘し、友人に叱られても自制ができず、学習会で「武訓伝」を肯定したそうです。

 学習会で私は主人公のために弁解し、『武訓伝』への批判に対してノーと言った。「文化・文芸界に言論の自由を与えるべきだ。知識人の意見に耳を傾けることは党の発展、国の建設に決してマイナスではない。反対意見を聞かないことこそ致命的だ」と、その理由を述べた
 私は、党の指示に服従しなければならぬ共青団員(筆者注:中国共産主義青年団)が、そんな厳粛な場で異論を口にしてはいけないと分かっていたけれども、主人公に心を打たれたため、映画についていい加減な言葉で済ませることができなかった。

長谷川暁子「二つの祖国の狭間に生きる-長谷川テルの遺児長谷川暁子の半生-」P145~P146 

毛沢東が批判する「武訓伝」を擁護したことで、暁子さんは共産主義青年団支部から厳重な注意、警告を言い渡されました。また、暁子さんを訪ねた劉星さんにも、暁子さんは政治的認識が軽薄で政治的感覚が鈍く、毛沢東思想の学習を怠けていると警告しました。(※3)

 以上を受け、社会問題について暁子さんは、劉星さんと一日話し合ったのですが、その時、劉星さんは次のように言明しました。

 「万民こぞって一人を謳歌する国は危ない。今までの政策を続けたらわが国はだめになる。一党制の国の転機は、党内に懸命な指導者が現れることに託すほかない。こういう人たちが今いるか。いるとしても、厳しい権力闘争の中で勝ち残れるかどうか。しばらく情勢の行方を観察しないと分からない」と語った兄の顔は真剣そのものであった。「とにかく、現実逃避は卑怯なことだ。社会より良識がまだ安住できそうな大学で、本を多く読むこと、本音を言わないことだ」と、兄は行った。
 「今、良心が踏みにじられている。でも、良心をもって生きてゆくのは人間の責任だと僕は思う。おぞましい試練が目前に待ち構えていることを予感しているが、僕は真正面から立ち向かうつもりだ」

長谷川暁子「二つの祖国の狭間に生きる-長谷川テルの遺児長谷川暁子の半生-」P148 

既に劉星さんはこのときには、政治的過ちを冒した反動学生とされており、(※4)暁子さんを訪ねる外出許可は病気見舞いを口実にして外出できた状況であり、相当厳しい立場に置かれていました。それでも、劉星さんは、国務院総理である周恩来宛に、① 建国以来の政治運動の誤り、② 複数政党制の必要性、③ 対外的な開放、④ 知識人迫害の是正、⑤ 国の貧困の原因を列強侵略などの他者に責任転嫁せず、自らの反省とすべきこと、等の内容を記した手紙を書いたそうです。しかも、この諫言状は3回出しており、逮捕される危険性を覚悟の上で劉星さんは実行したそうです。(※5)結局、劉星さんは「特級反動学生」とされて、北京郊外の軍隊駐屯地で3年間監禁生活を送ることとなりました。劉星さんの想いに、国家、国を支配する中国共産党は弾圧という形で応じました。

文革期の弾圧・残虐行為に対する暁子さんの記述

 文革期の弾圧・残虐行為は劉星さんに及びましたが、これ以外にも暁子さんは自身が体験した過激派による糾弾を記しています。アメリカから帰国した女性の助教授は、ネコを飼い、化粧、洋服といったおしゃれなスタイルをしていたために、腐敗したブルジョアだとして、革命委員会に目をつけられました。彼女は髪の毛をトラ狩りにされて糾弾、なぶりものにされて、飼っていたネコを殺された上、独房に入れられました。(※6)また、大学が移転した際には、移転先の峨眉山がかつて国民党の根拠地であったから、峨眉山の寺の僧侶、尼僧は国民党のスパイであるとして、彼らにリンチを加え、老僧が殺されました。(※7)これらの行為には、糾弾される前に誰かをスケープゴートにしたいという心理、普段の人間関係での個人的な恨みを晴らすといった心理など、まさに人間の醜さを露呈した行為と言えるでしょう。

 そして、暁子さん自身も文革期糾弾の材料として使われた壁新聞で、日本人であるなどとして糾弾されました。(※8)糾弾の内容を知った大学にいる労働者幹部(※9)から「反省」を強く迫られ、生活がかかっている暁子さんは屈してしまいます。その時の様子を暁子さんは、理性を屈服させるお金の強さに驚き狼狽したと語っています。(※10)ただ、そのことを私は責めることができるのか、という想いになるのです。私が同じ立場だったら、劉星さんはもちろん、暁子さんのような真摯な態度を取れるだろうか、そんな想いを抱かせました。

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 いかがだったでしょうか。次回後編では、暁子さん、劉星さんの日本に対する想いについてご紹介します。

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

脚注

(※1) 長谷川暁子「二つの祖国の狭間に生きる-長谷川テルの遺児長谷川暁子の半生-」P142~P143 同時代社

(※2) 長谷川「前掲」P144~P145

(※3) 長谷川「前掲」P146~P148

(※4) 長谷川「前掲」P149

(※5) 長谷川「前掲」P188~P189

(※6) 長谷川「前掲」P150~P164

(※7) 長谷川「前掲」P171~P175

(※8) 長谷川「前掲」P197

(※9) 暁子さん自身は労働者幹部と表記していますが、個人的には「労働者」幹部が妥当だと考えています。

(※10) 長谷川「前掲」P200~P201

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