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秋山ちえ子について①ー「秋山ちえ子の談話室」、戦争観を中心にー

 今回から3回にわたってラジオを中心に活躍したジャーナリスト秋山ちえ子さんを取り上げます。1回目は「秋山ちえ子の談話室」、秋山ちえ子さんが「かわいそうなぞう」を朗読する理由および秋山ちえこさんの戦争観についてです。

はじめに

 (大沢悠里のゆうゆうワイドも終わりか)そんなことを思いながら「大沢悠里のゆうゆうワイド 土曜日版」の最終回を聞いた。1986年に「大沢悠里のゆうゆうワイド」の形で始まり、2016年からは「大沢悠里のゆうゆうワイド 土曜日版」として計36年間放送された番組も終わるときが来た、ラジオ番組史の一つになったんだなと思うとどこか寂しいものを感じた。

 ふと、「大沢悠里のゆうゆうワイド」が番組内でどんなコーナーや箱番組を内包していたのかと振り返った。毒蝮三太夫「ミュージックプレゼント」(これは2022年4月現在月1回「土曜ワイドラジオTOKYO ナイツのちゃきちゃき大放送」で現在も放送中)、永六輔「誰かとどこかで」など個性あるパーソナリティのラジオ番組があったな、と懐かしく感じた。そして、女性、生活者、ジャーナリズムの立場に立ったラジオ番組を内包していたことを思い出した。午前10時から10分間放送された「秋山ちえ子の談話室」である。

秋山ちえ子の談話室

 この番組は1957年から「昼の話題」というタイトルで始まったTBSラジオで放送された番組で、1970年に「秋山ちえ子の談話室」(以下「談話室」)と変更されて以後2002年まで45年に渡って放送された長寿番組である。その後も「秋山ちえ子の日曜談話室(以下「日曜談話室」)という形で日曜日の夜に2005年まで3年間放送された。日曜談話室を含めると48年間放送されたことになる。

 この番組は最初に”Lawrence Welk And His Champagne Music”というグループの"The Kiss Polka"(※1)という曲のサビの部分が流れ、音楽終了後にアナウンサーから「この時間は、毎日の暮らしの中からいろいろな話題を拾って、秋山ちえ子さんがお話になります。 それでは、秋山さんお願いします。」と紹介があった後、秋山本人が「皆さま、こんにちは。」とあいさつをした後に、紹介にあった通り生活者の視点で時事問題、身近な日常の出来事、本の紹介などを取り上げ、最後に「それではきょうはこれで、皆さまごきげんよう。」と別れのあいさつをして再び”The Kiss Polka"を流して終わるという流れであった。

 私が談話室を聞いていたときの秋山への印象は、品のあるおばあさんがソフトな語り口ながらも、きちんと言うべきことをはっきり言うという感じで番組に臨んでいるなというものだった。そして物事をわかりやすく丁寧に話してくれているな、とも感じていた。

 現に、秋山はラジオは耳で聴くメディアのため、聴いただけでは分からない言葉を使わないように気を付けるなどラジオリスナーがどう聴くかという視点でラジオ放送に臨んでいた。また、ラジオは視覚で訴えることができないため、状況をきちんと細かく丁寧に説明をするといったことにも注意を払っていた。(※2)ここにテレビメディアをはじめとした視覚に訴えるメディアに携わる放送人との違いを感じさせられる。

かわいそうなぞうと戦争

 秋山ちえ子でイメージするのは毎年8月15日、日本が降伏をした日に「かわいそうなぞう」(※3)を朗読するというものであろう。これは単に戦争はよくないという一般論の類からのものではない。秋山は1917年生まれであり、十五年戦争中の14歳から28歳までの青少年期を戦争の時代で過ごしたという意味では、秋山は戦争を本人自身の問題として直接考えている要素が強いと言える。秋山は「かわいそうなぞう」を語る理由について次のように述べている。

 「(略)戦争のない、争いごとを武力で解決する国のなくなる世界のための小さな種蒔きをしたい」
 私のいう小さな種とは、第二次大戦中に自分が体験したことを身近な人に話したり記録に残すことだ。
 人間にとって「忘れる」ということは、生きる中で大事な要素の一つだ。が、忘れてはいけないことを記録しておくことは大事だと、折あるごとに、人に話している。
 私は戦争を知らない人たちと忘れている人々のために、いくつか私のできる小さなことをしている。
 その一つは一年に一度、敗戦記念日の八月十五日にラジオで朗読する「かわいそうなぞう」の話がある。(※4)

 戦争体験を伝えたいという思いは、(※4)で引用をした「八十二歳のひとりごと」「戦争を知らない人たちと忘れている人々へ」で、「かわいそうなぞう」の他に、日本が戦争に負けた年である1945年に卒業をした人たちの体験談と沖縄戦で捕虜として戦争を体験した人の話を掲載する形にも反映されている。ここには、米軍の軍用機グラマン機に搭乗している米兵と目が合ったために銃で撃たれそうになったこと(※5)、防空壕に爆弾が直撃したために爆死した同級生のこと(※6)、食糧難に苦しみ白いご飯を食べたいと思っていたときに竹筒の食器のご飯を見てやっとありつけたかと思ったら、竹筒の食器のご飯の厚みが2センチほどで他はふかしイモだったこと(※7)、野営演習の際に戦争で人と人が殺し合うことは納得できないと主張をした人が精神を病んでいるとして座敷牢に閉じ込められたこと(※8)、沖縄戦の過酷さを「首なしやアバラあらわな死体さえ平然と見る馴れはおそろし」(※9)などの短歌で表現をした元沖縄戦の捕虜などの体験談が掲載されている。また、日本の諸外国への加害責任の存在にも言及しており、2004年の全国戦没者追悼式の際に当時の衆議院議長である河野洋平がアジア近隣諸国の侵略行為を認め、その人々への追悼に言及をしたことに

 私は「そうです。そう思います」と、一人で深くうなずきました。(※10)

との考えを示している。

 今、挙げた事例は、戦争に対し、一方にだけ共感をしてどちらかの国を応援しようという心理になって酔いしれることでもなければ、戦争は指導者だけの争いであり両国の民衆支援のため世界の民衆が団結して戦争を止めさせようといった当事者の生活実感としての戦争を無視した理想論としての戦争批判でもない。秋山にとっての戦争批判とは、自身が戦争の時代を過ごしたことを踏まえ、人びとの日常生活を破壊する戦争を生活者の視点から二度と再び起こしてはならないというものだ。秋山の戦争観を知ると、戦争体験者の視点を理解することなく、戦争を論評することがどれだけ傲慢で浅薄なものかということを感じさせられる。戦争を直に体験した者の切なる思いを戦後世代である私たちはどれだけ理解をしているのかと感じずにはいられない。

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  いかがだったでしょうか。次回2回目は秋山ちえ子さんの生涯についてご紹介します。

皆が集まっているイラスト1

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(※1) 

(※2) 秋山ちえ子・永六輔編著「ラジオを語ろう」P18~P19 岩波書店

(※3) 秋山ちえ子「風の流れに添って ラジオ生活五十七年」P260~P261 講談社
 なお、「かわいそうなぞう」の作者である土屋由岐雄自身は十五年戦争中に児童文化の国策協力団体である「少国民文化協会」に勤務をしていたこと、十五年戦争中の1942年に戦意高揚の国策児童文学「ドイツ人形」も書いており、一貫した平和主義者であったわけではない。また、史実として空襲によって象の殺処分が行われたのではなく、戦意高揚のために行われたことが指摘されている。

(※4) 秋山ちえ子「八十二歳のひとりごと」「戦争を知らない人たちと忘れている人々へ」P116~P117 岩波書店

(※5) 秋山前掲「八十二歳のひとりごと」P130~P131

(※6) 秋山前掲「八十二歳のひとりごと」P132

(※7) 秋山前掲「八十二歳のひとりごと」P137

(※8) 秋山前掲「八十二歳のひとりごと」P145

(※9) 秋山前掲「八十二歳のひとりごと」P149~P152

(※10) 秋山前掲「風の流れに添って ラジオ生活五十七年」P252

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