日朝首脳会談20年 ④-宋安鍾「もうひとつの故郷へ」を読む(後編)-
日朝首脳会談20年を踏まえ、1回目と2回目は北朝鮮の拉致問題について日本の社会主義者、進歩派がきちんと総括をできなかったことの問題について太田昌国著「「拉致」異論 日朝関係をどう考えるか」を中心に考察をして参りました。(※1)3回目の前回(※2)と4回目の今回は現代思想2007年2月号に掲載された宋安鍾著「もうひとつの故郷へ」を中心に考察をして参ります。
宋の生い立ち
宋は自身の生い立ちについて、故国が韓国であると知らされたのは幼い頃のことであり、そのときのことはよく覚えていないという。また、宋は朝鮮学校ではなく日本の学校に通名と呼ばれる日本人名で通っており、朝鮮学校による民族教育を受けてはいない(※3)。背景としては、母親が自身の父親が両班出身の反共主義者で民団支持であったことが指摘される(※4)。宋は幼い頃は日本人ではないが、朝鮮人としてのアイデンティティを公に主張できない状況や、朝鮮学校での民族教育、歴史教育を受けている在日朝鮮人が正統であり、そうではない在日朝鮮人を異端とする当時の風潮、それとの裏返しの形で両親が韓国を支持していたことに悩み苦しみ、劣等感を心に抱くようになったという(※5)。
そんな宋が北朝鮮に対するコンプレックスを止めたのは北朝鮮に渡航した母親の中学校時代の級友からの手紙を知ったときだったとある。その手紙は粗悪な封筒、便せんで届けられており、ただかつて過ごした中学時代の想い出だけが書き連ねてあったという。そこから宋は渡航した人物が現在の苦境を口外できるような状況にはないのではないかと感じたという(※6)。
宋は言う。
私はこれを読んだとき、私たちの側も宋が指摘するように朝鮮半島の問題、情勢をきちんと深く理解をしているだろうかという想いにかられた。在日朝鮮人が日本、朝鮮半島の政治に振り回されている状況について、もっと深く私たちの側が認識をしていたら、朝鮮半島、とりわけ北朝鮮について社会主義イデオロギーの可否という観点とは違う生活実感からの考察ができたのではないだろうか。それができなかった、できないことは、前回も触れたがやはり私たちと在日朝鮮人との間の溝の深さを感じずにはいられない。
保守政治に利用される朝鮮半島情勢
朝鮮半島については、いまだに戦略論として語られることが多い状況にある。韓国において朴正煕軍事政権に連なる保守本流、朴正煕軍事政権に対する民主化闘争を戦ってきた反主流のどちらが政権を執るかによって対日政策が左右されると考え、やきもきする日本政府及びそれに追随するメディアの状況は、いまだに朝鮮半島を自国の安全保障上の橋頭保とみなして、そこに影響力を行使したいという表れであろう。私は朝鮮半島を安全保障上の観点から考える一面的な思考形態は、宋がいうところの「明治以来の政治資源」という発想から克服できないことの一つとして表れていると考える。
「明治以来の政治資源」という発想は朝鮮半島を橋頭保とみなす発想だけではない。李庭植「戦後日韓関係史」には、日本は冷戦期の緊張緩和の時代とされる1970年代のデタントの時代には、北朝鮮に対して経済活動の一環として利用できると考えていた時期があったことが記されている。
1972年7月4日、朝鮮半島の統一を武力に寄らず自主的に統一すること、ソウル、平壌間でのホットラインの設置などを謳った南北共同宣言が発表された。南北共同宣言は韓国からの米軍撤退を北朝鮮が主張するなど軍事的問題などから暗礁に乗り上げたのだが(※8)、当時のデタントの雰囲気から日本の財界から北朝鮮との交易を求める声が出始めた。その際に新たな方向に道を開いた人物は自民党の保守本流の中でタカ派的傾向を持つ福田派の指導者である福田赳夫であったという(※9)。福田は1969年11月に当時の米大統領ニクソンと日本の首相である佐藤栄作との間で発表された共同声明において韓国の安全が「日本の安全にとって重要である」という一節、いわゆる「韓国条項」と呼ばれた条項について1972年5月16日、当時佐藤内閣の外相として事実上その効力を失っていると国会の場で言明した(※10)。
一方、北朝鮮はこうした日本の動きについて、日本が朝鮮半島の両国家について等距離外交を行うのではないかと判断し、1971年9月、10月に朝日新聞編集局長など日本の有力なジャーナリストを招待した。与党自民党側も同年11月に日朝友好促進議員連盟を設立し、翌1972年に代表団が平壌を訪問し、1973年には議員連盟と北朝鮮の国際貿易促進委員会の間に貿易協定が締結され、結果日本の北朝鮮貿易は拡大した(※11)。また、日本の財界指導者も北朝鮮が朝鮮総連を通じた経済交流を提案したときに積極的な姿勢を示し、財界指導者の訪問の組織化、北朝鮮への全プラントの輸出経路として巨大な貿易協会の組織化を試みたという。そしてその商業活動は福田派の政治家福家俊一と日韓協力委員会で岸信介の主要な代理人の一人である矢吹一夫が背後で暗躍していたとされる(※12)。
李庭植の「戦後日韓関係史」における自民党の朝鮮半島に対する南北等距離外交については宋の「もうひとつの故郷」でも触れられている。宋が北朝鮮に対してコンプレックスを抱いた社会的背景には当時のこうした状況も大きいことがお分かりいただけるだろう。そして(※7)における宋の強い決意についての理由も敢えて私が改めて言う必要もないだろう。
アイデンティティとしての在日朝鮮人
宋は在日朝鮮人であることで、朝鮮はウンザリという想いを抱くだろう人たちについて、次のように語る。
宋の引用したこの言葉からは自身のアイデンティティとは何かと葛藤し、苦しむ在日朝鮮人への暖かな視線を感じさせる。そしてそうした在日朝鮮人についての模索についても宋は示している。
宋は在日朝鮮人のあり方についてどのように考えているのだろうか。宋は世間からの差別を忌避しニュージーランドに移住した在日朝鮮人の例を挙げている。ただし、宋は単純に第三国に移住すればいいと言いたいのではない。ニュージーランドへの移住という行動を通して、在日朝鮮人としてのアイデンティティを従来の枠組みにとらわれない形で模索しようとすることに宋は意義を見出していると言える。宋は最後にこの言葉で締めくくって「もうひとつの故郷」を終えている。
私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。
(※1)
(※2)
(※3) 宋安鐘「もうひとつの故郷へ」「現代思想2007年2月号」 P128
(※4) 宋「前掲」P136
(※5) 宋「前掲」P129~P130
(※6) 宋「前掲」P128
(※7) 宋「前掲」P131
(※8) 李庭植(小此木政夫・古田博司訳) 「戦後日韓関係史」中央公論社 P103
(※9) 李「前掲」 P106
(※10) 李「前掲」 P106
(※11) 李「前掲」P107~P108
(※12) 李「前掲」P109
(※13) 宋「前掲」P131
(※14) 宋「前掲」P135