敢えてクリスマスの日に死刑について考える
クリスマスに死刑を執行した国
2006年12月25日、この日77歳、75歳の高齢の死刑囚2人を含む4人の死刑囚の死刑が執行された。この死刑執行は、残りの人生がわずかな高齢の死刑囚に対し、何がなんでも死刑を執行しようとする国家権力の強靭な意志と恐ろしさを感じさせると同時に、死刑が廃止されているキリスト教信仰が中心のEU諸国(※1)への挑発となった。
私はハンセン病に関する勉強をしていた際に、菊池事件(※2)という冤罪によって死刑が執行された可能性が高い事例を知っていたので、元々死刑について否定的に考えていた。そして、この高齢死刑囚の死刑執行を知り、いてもたってもいられずに死刑執行の抗議集会に足を運んだのを覚えている。抗議集会ではこの75歳の死刑囚についてのエピソードが司会者から涙ながらに語られた。75歳の死刑囚はキリスト教の洗礼を受け、聖書を読むことを通して己の罪に向き合い、拘置所の日々を過ごしていたという。また、移動の際は車いすを使っており、まともに立てることができない中看守に両脇を抱えながら首にロープをかけられて処刑されたとのことであった。
イエスは人びとに生きるあり方を示すためこの世に生を受け、人びとの罪を贖う形で処刑された。こうした経緯から原始キリスト教は死刑に対して否定的であったが、キリスト教自体が世俗の権力を握る過程で死刑を肯定した歴史的事実がある。本来宗教は自身の教義・信仰を世俗の権威の誘惑に服する形で歪曲されることがあってはならないのだが、キリスト教は世俗からの誘惑に負けて本来あるべき道から外れた。その歴史的事実に対しキリスト教徒がなすべきは血を流すことをイエスで最後にするということではないか、それがイエスがこの世に生を受けたことに対する感謝を示すことであり、イエスを処刑したことが過ちであったと自覚することの表れではないだろうか。
そして今年も死刑は執行された
この記事を書いている途中、12月21日に死刑が執行されたとのニュースが入った。(※3)この日はまだ国会開会中であり、国会開会中に死刑が執行されたということは、国会が死刑についての問題をきちんと議論する土壌がなく、国会で批判されることがないから死刑執行をしても大丈夫だと判断したことの表れである。また、私たちの側に国家が生殺与奪の権限を握っているということで社会が平穏であるという「神話」を受け入れているとも言えよう。
被害者遺族感情や治安の観点から死刑の存続を求める声は強い。しかし、被害者遺族は加害者との間での対話は絶対に成り立たないと断言できるのか、また治安は死刑によってのみ成り立つと言えるのか、そうした本質的な問題に対して私たちは向き合っているのだろうか。私たち自身が他人事のように被害者遺族を分かっているつもりになっていることはないだろうか(※4)。治安の悪化の根本原因である貧困や将来への失望、不安を解消することをせずに自己責任ばかりを強調していることが望ましい社会であろうか。死刑によって問題を解決するあり方が健全なあり方という考え方には私は同意できない。
法務当局は死刑囚について、死刑の状況に関する情報を公開するつもりはなく、死刑執行命令についてのプロセスやなぜその死刑囚が執行されたのかの根拠などは一切示されない。国会は国会でそうした死刑を巡る状況についての問題点が深く議論されている様子はない。
日本の世論における死刑感情が強いこともあるだろうが、とりわけ国家権力の側に死刑存置を強く求める動きが強いことも大きい。2009年から2012年の民主党政権においても死刑の執行がなかったのは2011年だけであり、また死刑廃止派であるはずの千葉景子の法務大臣就任時の2010年に死刑執行がなされたことを忘れてはならない。もちろん民主党政権が死刑廃止に積極的に動いたという話はない。
現在、国会に議席がある政党において死刑廃止を明確にしているのは日本共産党と社会民主党の2政党のみである。(※5)社会主義政党と共産主義政党のみが死刑廃止を明確に主張しているということは、この国における厳罰主義的傾向と過ちを更生することの必要性に対して冷淡であることの表れだ。(※6)また、進歩的でリベラルとされている-実際は保守政党なのだが-立憲民主党が死刑への態度をはっきり示せないことは、この国の言論人、文化人の多くが死刑の問題について他人事のように考えていることを意味している。
日本の主要なメディアは死刑執行の事実を淡々と書くだけで死刑囚がどういう状況であるかを伝えるつもりはない。イエロージャーナリズムは事件を扇動的に面白おかしく伝えている傾向が強い。運動家は人の話を聞かない、自分の価値観を一方的に話すといった態度が強く、人びとが死刑の問題を考えたくない傾向の一因となっていることは否めない。運動家自身も考え方の違いを認識した上で、なぜ違いが出るのかを知る必要はある。ただ、一番大切なのは私たちが死刑を他人事と考えるのではなく、一人ひとりが主体的に考え、行動することであろう。
死刑に関する問題は一過性の問題ではなく、継続して行うべき問題であると考える。それ故に、私自身は具体的な行動につなげていくと同時に、適宜note内で死刑について述べて参りたい。
私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。
(※1) ラトビアが戦時における死刑を存置しているほかは、EU加盟国はすべての事例において死刑を廃止している。
(※2)
(※3)
(※4)
坂上香「癒しと和解への旅 --犯罪被害者と死刑囚の家族たち--」では、アメリカにおける死刑囚と犯罪被害者との両方の家族がお互いに旅「ジャーニー・オブ・ホープ」を通して語り合うことを通しての死刑囚家族、犯罪被害者家族の葛藤を記している。
(※5)
(※6)
ただ、それでも昔は保守・革新関係なく死刑に反対する国会議員は少なくなかった。自民党内では志賀節、亀井静香などが知られており、鈴木宗男も死刑に対しては反対の立場を主張している。
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