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山田昭次著「植民地支配・戦争・戦後の責任」の中から「満州の日本人農業移民と中国人・朝鮮人」を読む

  今回のnoteは今日、満州事変(中国の呼称は「九一八事変」)から90年目となることを踏まえ、ゼミで報告した満州移民のレポートをnote向けに改めて修正の上掲載するものです。

1.本文概要

 今回noteで取り上げる「満州の日本人農業移民と中国人・朝鮮人」では長野県旧大日向村における満州移民の経緯を中心に、満州移民の問題点について記されている。
 1章では、満州移民が国策によって巧妙に動員されたことや、満州移民の中国人、朝鮮人に対する視点を踏まえて本論を展開していくことが記されている。
 2章では、旧大日向村の社会構造について記されている。具体的には、旧大日向村が地主、小作人間の対立よりも、地域住民が地元の有力資本である与志本商店(現株式会社吉本)(※1)に経済的に従属されることによって起こる与志本商店と地域住民の対立のほうが強かったことが記されている。
 3章では、2章における旧大日向村の社会構造を踏まえた上で、旧大日向村の満州への分村移民が、著者が定義するところの「中堅人物」によって自発的に進められたのは、長野県が満州移民を経済更生運動の一環として当初から結びつけて考えていたからではないかとの見解が記されている。
 4章は4つの節で構成されている。1節では旧大日向村の村長浅川武麿(たけまろ)と満州分村移民での中核人物である堀川清躬(きよみ)の言動に言及している。浅川については、村長の立場で県、中央との折衝を通じた満州移民の立案を行ったこと、満州移民には堀川によるところが大きいと証言したことが記されている。堀川については、与志本商店の収奪への対抗として設立した「有限会社大日向製炭販売購買組合」の創設者として村民の信頼があったことや、堀川自身が満州移民に窮民救済の理想を持っていたことを踏まえた上で、村民に満州移民を働きかけてきたことが記されている。
 2節では、農林省の特別助成金と堀川の行動について述べられている。特別助成金については、農林省が経済更生の一環としての満州移民計画の実験台として旧大日向村を考えており、そのために多額の特別助成金を旧大日向村に交付したとの推察がなされている。堀川の行動については、入植選定条件について、米作が可能なこと、交通の利便性、広漠千里の土地ではなく多少山のあるところといった条件を拓務省に提出し、認められたことが記されている。その上で、経済更生特別助成によって、旧大日向村が満州移民のモデルとして全国に喧伝され、旧大日向村住民の満州移民が行われた翌1938年には長野県をモデル県とし、1939年には全国レベルで助成を展開していくことになったとある。
 3節では、満州移民が行われる前の旧大日向村では与志本商店と地域住民との対立が中心であったのに対し、実際に満州への入植が行われるにつれて、満州移民に関する村税負担に対する中小地主層の反発や移民に対する妨害工作が起こったことが記されている。そして、その妨害工作に反発した村内底辺農民層らが国策に従属される形で満州移民への希望熱を高めることになったとの考えが記されている。
 4節では、日中戦争による軍需景気により、満州移民への熱意が低くなることを懸念した長野県当局が強制的に人員を割り当てる形で満州移民を行い始めたことが記されている。具体的には、旧大日向村以外の住民を補充する形でモデル村としての成功例を強調し始めたこと、旧大日向村のモデル村としての宣伝工作として映画、小説を使って長野県下の村から移民を送り出そうとしたことが記されている。また、国からの助成金と引き換えに移民を送り出すようになった岐阜県恵那郡坂下町のケースや数か村単位による分郷移民による団長選出の権力からの介入がなされたほか、本人の意志を無視して移民を送り出した事例などが記されている。
 5章は3つの節で構成されている。1節では旧大日向村における入植条件は好条件であったが、戦争末期になるにつれて、ソ連国境に向かう軍用道路に沿った土地が割り当てられるなど、入植が軍事目的優先となっていったことが記されている。
 2節では、満州拓殖公社が中国人耕作地を安い値段で買い取ったことや、現地の中国人、朝鮮人に対して家屋建設までは小作として使い、その後は立ち退かせたりしたこと、また補注の引用の形で中国人、朝鮮人に対して横柄な態度はもちろん犯罪も平気で行ったことが記されているほか、(※2)そうした一連の行為に対する中国人、朝鮮人の反発が日本の敗北を察知し始めた頃から出始めたことなどが記されている。
 3節では、日本の降伏の結果、満州移民団がソ連兵の襲撃や、中国人、朝鮮人からの反乱を受けたこと、逃亡の際に病気にかかり死者を出したこと、生きて日本に帰って来られた人たちも村に留まれず、軽井沢町などへの入植を余儀なくされたことなどが記されている。
 6章では、著者自身の戦争体験への想いを踏まえた上で、満州移民の問題やそれに関連する今日的(執筆当時の)問題、「戦後」生まれの世代に対する考え方がまとめられている。

2.本文を踏まえて

 ここでは、本文を踏まえた上で、著者の関連発言およびエピソードなどを中心に述べていきたい

2-1.戦争体験との関連で

 元満州移民である武者武子氏が、自分たちに与えられた土地は現地の人々が所有していた土地を収奪したものだと回想をした際に、「今にして思えば」という言葉を発したことに言及し、武者氏も中国人・朝鮮人から収奪した土地であることを知っていたのではないかとの考えを示した上で、著者自身が戦争当時中国人、朝鮮人を人間とみなしていなかったとして、次のように記している。

「1943年頃、私の学校の軍事教練の教師が中国戦線で日本軍が毒ガスを使っていると語ったが、私自身なんの心の動揺を感じなかったことを記憶している。当時私たちは中国人・朝鮮人を人間と感じていなかったのである。」(※3)

 戦前・戦中においては中国人、朝鮮人に対して過ちを犯したことに対して、過ちを犯したという認識がなかったと表明している。このエピソードについてだが、私は何回か著者が口にしたのを直接聞いており、それだけ著者には伝えなくてはならないという思いが強いのだろうと考えさせられる。また、

「満州から引き揚げた農民たちはさまざまな満州像を語っている。それが8・15以後に青年期を迎えた私たち世代にどうかかわってくるのかも、最後に考えてみたい。」(※4)

 とあり、満州移民の問題を自身の戦争体験との兼ね合いで考えていたことがうかがえる。

2-2.戦後世代に対する考え、認識について

 著者の戦後世代に対する認識をうかがい知ることができる文章としては次のものが挙げられる。

「移民した人々がかつての自分の歴史的役割を冷静にとらえるには困難な条件が多い。とりわけ、満蒙開拓青少年義勇軍に参加し、そこに青春を費した人々は、過去をまちがったものととらえる苦痛に耐えられないであろう。私自身も若い学生から戦後民主主義の虚妄を説かれると、一面共感をもちつつ、他面「しかし」という感情をおさえつけることができない、それと似たものがあろう。」(※5)
 「8・15後に青春を迎えたり、生を迎えた者は15年戦争について、あるいは植民地支配について責任を負うことはない。だから戦前世代の審判者たりうるとしばしば思いこんだところに、戦後民主主義なり、戦後世代の錯覚があったというべきだろう。」(※6)
 「(朝鮮戦争、ベトナム戦争での米軍基地提供、軍事政権下の朴正熙大統領への無批判性を前提に)15年戦争の結末をすでに見た「戦後」世代が「戦前」世代の愚かさを笑うことはたやすい。
 しかし「戦後」世代がとかく現在の支配者のつくり出す流れに身をゆだねがちな愚かさを自ら笑っているだろうか。「戦後」世代が自ら「戦後」責任を取上げることなしに、「戦前」世代の責任を取上げるならば、いたずらに断絶を生み出すのみであろう。」(※7)

  戦後世代の戦争責任については、家永三郎の「戦争責任」の中でも言及されているが、(※8) 著者は、戦後世代が戦争について自身の問題ではなく他人事のように批判をしている問題点を取上げている。その上で、

「現在も被害者でありながら他民族に対する支配の一翼を担わされた移民、日帝支配下の最底辺におかれた中国・朝鮮の民衆、8・15以後に青春を迎えた私たち世代、8・15後に生まれ、したがって戦前に対し全く責任がなく自由に老壮年層を批判できる現在の青年たち―こうした位相を異にした諸民族、諸世代の間の連帯と共闘はどのようにして成立するのだろうか。山村を歩き廻りながら思ったことはこのことであった。」(※9)
 「日本社会の最底辺におかれた在日朝鮮人でさえ、単に被害感覚にとどまることなく、自己の民族的主体性の自己点検を進めている。固有な負い目をそれぞれが背負うことによって位相を異にする者の連帯が成立するように思う」(※10)

 として、自分たちが向き合うべき問題点、過ちに向き合い、各々が認識することで違う立場の人たちの問題点、課題を理解した上で協力し合うことができるのではないかとして、本文を終えている。

2-3.被支配民族に対する加害者としての日本人の認識について

 著者は満州移民について

「移民、より正確に言えば植民者というものは」(※11)

 という言葉にある通り、満州は実質的には日本の植民地であり、そこへ日本人が移民をすることは植民であるとの認識をはっきりと示している。その上で、

「民衆であり、帝国主義の被害者であっても、被圧迫民族に対しては加害者としての側面をもつことは否定できない。実証的、科学的な調査・研究を進めれば、植民者であった民衆の痛みの部分にふれないわけにはいかない。とくに移民の指導者の場合、事態はより複雑化する。」(※12)

 との考えを示している。さらに、降伏による現地の中国人、朝鮮人の反乱を匪賊の仕業と思い込んでいる元移民の話や(※13)、 平和だったらまた満州に行きたいと話した元移民の話、旧大日向村の旧指導者が若者にアジアへ行けと言った話など(※14)、満州移民の実態が武力を背景にした満州に住む現地の中国人、朝鮮人を支配するための手段であったことの発想がないか関心がない実例を取上げている。ただ、そうした元移民の心情について著者は次のように考えている。

「倫理的にそうしたことはいけないということは簡単である。しかし満州移民を送り出した山村を歩けば、すぐ気づくだろうが、かつて村の生業であった養蚕も炭焼きもつぶれ、青年を村にとどめるために誘致した小さな下請け工場も不況でつぶれ、過疎化はとどめがたく進行している。この20年ほどの間に人口半減という村も珍しくない。村に残るのは老幼婦女子のみである。移民前の村となにほどのちがいがあろうか。「狭い日本は住みあきた」というのが移民送出のイデオロギーだった。(略)「狭い」という言葉の中に農民の生き苦しさや時代閉塞感が深くこめられているように思えてきた。」(※15)

 として、移民の人たちが経験した厳しく苦しい生活に言及し、満州移民の問題が倫理的な価値観で一方的に裁断するほど単純ではないことを認識している。脚注9で引用をした文章はそうした元移民の人たちの状況を踏まえた上でのものであろう。

2-4.満州移民を送りだした国家や権力に対する元移民者の認識について

 元移民は、前節で述べたように満州移民時代に中国人、朝鮮人から土地
を収奪したことにより地主となったため、その時代の栄光を懐かしむ側面がある一方で、日本の降伏によるソ連軍の侵攻や現地の中国人、朝鮮人の反乱により惨憺たる状況で日本に逃げ帰った経験を持つ意味では必ずしも国家や権力に対して肯定的なわけではない。そのことが次のことからうかがえる。

「かつての村の一指導者は、私が何度目かに会った日、酒をくみかわしている最中、突然「君ら、官僚にだまされるな」と言った。しかし、その後まもなく「いや、おれは官僚を利用したんだ」と前言を打消した。彼は堀川と親しく、また自分の弟を移民に送り出して失った人である。おそらく堀川や弟の最後を思い出して疼きを感じたのであろう。しかし、だまされたと思うのにも耐えがたかったのにちがいない。」(※16)
 「(降伏によるソ連軍侵攻、現地の人たちの反乱による死、逃亡中の悲惨さや帰国後の国家の冷たい態度への認識を引揚者が持っていることを踏まえ)ここから出発して、もともと自分たちは国家に利用されていたのだという認識も生まれてきている。」 (※17)

ただ、同時にそれらに対して、

「(満州移民の引揚者が地元に残れず、軽井沢町大日向に入植を余儀なくされたことを踏まえ)「この年(=1947年)10月7日(昭和)天皇は軽井沢大日向を訪れた。開拓団員たちは感涙にむせんだという。」(※18)
「政府がかつて全国にモデルとして知られた移民団の住む軽井沢大日向に(昭和)天皇を送りこんだのは、移民内部に生まれた国家批判を萌芽のうちにつみとろうとしたものではなかったろうか。」(※19)

とあり、天皇の権威によって、元移民の国や国策に対する不満、反発をそらせようとする試みがあったということにも言及している。元移民が感嘆したのは、昭和天皇の慰問によって自分たちが受けてきた苦難の歴史に意義があったと思い込みたかったのだろう。天皇の権威は教育の影響はもちろん、戦争といった国威発揚の場においても発揮され、これらを通じて培われたものである。戦前世代の民衆にある昭和天皇への心情は戦後生まれの人間、まして昭和天皇をリアルで知らない世代とは違うものがあることは認識するべきだろう。

3.最後に

 いかがだったでしょうか。今回も文章が長く専門的な要素が強いため、読みにくいかと思います。本自体が専門性の強い本なので、私自身きちんと消化しきれているかどうかという思いもあり、そのためか、レポートを書いた際には著者の意図を十分汲み取れていないとお叱りを受けたことも覚えています。

 当時を生きていない私にとって満州移民の問題を理解することは、その時代を生きた人の話を聞いてもなかなか難しいものがあります。いかにしてその時代を生きた人の想いを汲み取り、教訓とするかが問われているのではないかと改めて考えさせられる次第です。

 近年、中国の人権状況、少数民族への対応についての問題点を強調する傾向にあります。しかし、日本が十五年戦争の時代に中国に何をしたのか、中国民衆に対してきちんとした納得のいく償いを行ったのかという問題を無視して中国の問題を語っても中国人が納得することはないでしょう。(※20)また、中国の人権問題、民族問題批判には、中国の自発的な解決の可能性を否定している傾向が強く、当事者である中国人がどのように考えているか、どのように解決をしようと努力しているのかを知ろうとする発想が少ないとも言えます。中国批判はともすると中国、場合によっては中国民衆への偏見や憎悪を加速させる場合があることを私たちは認識するべきでしょう。

 戦争を経験した世代が徐々にいなくなる中で、二度と戦争を起こしてはならないという意識が薄くなっています。満州事変から90年目の今日、改めてなぜ戦争をしてはいけないのかを考える一提案として、今回のnoteが活かされれば幸いです。忌憚のないご意見をいただきたくよろしくお願い申し上げます。

皆が集まっているイラスト1

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

(※1)

(※2) 山田昭次「植民地支配・戦争・戦後の責任」「満州の日本人農業移民と中国人・朝鮮人」(創始社)P202(以下、山田「前掲」と表記)

(※3) 山田「前掲」P151(なお、原文では数字は漢数字。以下同様)

(※4) 山田「前掲」P152

(※5) 山田「前掲」P198

(※6) 山田「前掲」P200

(※7) 山田「前掲」P201(括弧内の文言は宴の注釈。以下同様)

(※8) 家永三郎著「戦争責任」第4章第2節「戦争を知らない世代」にも責任はあるか

  なお、「戦争責任」に関する宴のnoteは次の通り

(※9) 山田「前掲」P200

(※10) 山田「前掲」P201

(※11) 山田「前掲」P195

(※12) 山田「前掲」P195

(※13) 山田「前掲」P198

このエピソードも著者からよく耳にした話である。

(※14) 山田「前掲」P199

(※15) 山田「前掲」P199

(※16) 山田「前掲」P169

(※17) 山田「前掲」P197

(※18) 山田「前掲」P194

(※19) 山田「前掲」P197

(※20) 十五年戦争中に中国、韓国といった占領地、植民地からの民衆の戦時動員への補償を求める動きが相次いでいることに対し、保守・右翼の政治家、運動家、メディア、学者などを中心に過去のことである、解決済みの問題であるとして反発する動きが強い。
 しかし、日本側は国交回復、樹立交渉において当事国が民衆の被害として求めた根拠額に難色を示すなど当初から補償を行うことに消極的な姿勢を採り続けていたこと(高崎宗司「検証日韓怪談」など)を考慮すると、日本が行うべきことを怠ってきたことのツケという側面は否めない。

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