見出し画像

秋山ちえ子について②-秋山ちえ子の生涯を中心に

 秋山ちえ子さんについて3回にわたってご紹介しています。
 前回1回目は、秋山ちえ子さんのラジオ番組「秋山ちえ子の談話室」および同番組内で秋山さんが毎年8月15日に朗読する「かわいそうなぞう」を朗読する理由および秋山ちえ子さんの戦争観をご紹介しました。(※1)今回2回目は秋山さんの生涯をご紹介します。

秋山ちえ子のラジオ人生(戦前)

 秋山ちえ子は1917年1月に宮城県仙台市で生まれている。ただ、仙台市には8カ月しかおらず、残りの人生は東京で暮らしているため実質的には東京人と言っていいだろう。(※2)

 その後小石川区(現在の文京区)の籠町小学校に入学する。元日銀総裁の澄田智は秋山ちえ子と同じ小学校に通っており、児童自治会で澄田が副会長をやっていた際に秋山は書記として、一緒に活動をしていたという。澄田によると、秋山は勉強ができてとてもかわいらしく全校生徒に人気があった一方、ハキハキしていてときどき男子児童と口ゲンカをしていたとのことである。(※3)

 女学校時代の記録は確認できなかったが、秋山は当時女子としては最高級レベルの学校である東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)に入学している。卒業後の1937年にろうあ学校の教師となるが、ろうあ学校の教師時代は当時使われた国定教科書を主体にした授業よりも「ありがとう」などの生活用語を覚えさせた方が生徒のためになるという姿勢で授業を行ったとのことである。授業方針を巡って同僚と衝突もあったようで、学校を辞めることを校長に話した際、自分のプライドのためではないかと諭されたことに心の目を覚まされる思いだったと語っている。(※4)秋山は放送の仕事において戦争で物事を解決しないこと、社会に置き去りにされている人のいない社会、とりわけ障がい者への対応の必要性を主体にしていると語っているが、(※5)ろうあ学校で聴覚障がい者に教育者として接してきたことが影響をしている面もあろう。

 教師としての仕事をする一方で放送に関する仕事にも携わっており、NHKにラジオ出演し自作の童話を年に数回放送をしている。(※6)その後、1940年夫の仕事に都合で中国へ渡っているが、秋山はこのとき中国に渡らなかったら戦争中に国威発揚の放送を行い、戦後追放されていたのではないかと語っている。(※7)

 1943年10月に一時帰国の予定で東京へ戻るも戦況が悪化していることを知らされ、夫の実家近くである鳥取の裏富(うらどめ)に疎開をする。裏富での生活は田舎ということもあり空襲による恐怖からも解放され、義兄の友人のツテを頼った別荘でのびやかな生活であったと語っている。そのためか、広島での原爆被ばく者が歯茎からの出血を語っても戦争の惨禍を理解していなかったという。その後、戦争が終わって東京に戻り米軍機による焼夷弾で東京が焼け野原となった状況を知ったとき、自身が戦争の惨禍に対して無知であったと自己嫌悪に陥ったと語っている。(※8)

秋山ちえ子のラジオ人生(戦後)

 戦後の1948年10月、NHKのラジオ番組「婦人の時間」の中で「会議の進め方」を、同番組終了後1949年から「私の見たこと、聞いたこと」を1956年まで担当している。これはCIE(GHQの民間情報教育局)が日本の女性、とりわけ主婦層の社会が知らないことを問題視し、女性の代表として秋山に放送に携わるように指示したことが背景にある。特に「私の見たこと、聞いたこと」は、CIEが秋山が女性の代表として日本各地をまわって報告することを求めて作られた番組であったという。(※9)

 「私の見たこと、聞いたこと」を終了後の1957年、当時の東京放送で「秋山ちえ子の談話室」の前身「昼の話題」を担当する。その後1970年に「秋山ちえ子の談話室」と改題し、「秋山ちえ子の日曜談話室」を含め2005年まで同番組を担当する。「昼の話題」を担当した際に一級の放送を続けるために取材費を増やしてほしいとの秋山の要請に対し、二級でいいからお金を使わないでほしいと当時のラジオ局長が返したという。とは言え、秋山は地方講演を頼まれたときや、テレビ番組を担当したときなどを利用して別にラジオ取材を行うなどの工夫を心掛けていた。(※10)そうした自身のラジオ番組に対する姿勢について秋山は次のように感想を語っている。

 「お金を使わない二級の放送が望ましい」という局長さんの言葉だったが、お金を使わないで「二級」ではなく「一級」の放送になったと、私は自負している。(※11)

 秋山ちえ子の談話室終了後も2006年4月から月に1回NHKのラジオ番組「きょうも元気でわくわくラジオ」に2008年3月の番組終了まで不定期で出演したほか、2015年まで毎年8月15日には「かわいそうなぞう」を朗読し続けた。2016年4月に99歳の生涯を閉じるまで直前までジャーナリストとしての精神を持ち続けた生涯であったと言えよう。

- - - - - - - - - - - - - - -

 いかがだったでしょうか。次回最終回は秋山ちえ子さんのジャーナリストとしての姿勢、女性観についてご紹介します。

皆が集まっているイラスト1

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

(※1)

(※2) 秋山ちえ子「八十二歳のひとりごと」「私の東京讃歌」P83 岩波書店

(※3) 秋山ちえ子「風の流れに添って ラジオ生活五十七年」「第二章 第三者の「秋山ちえ子評」澄田智「秋山ちえ子さん意識」(原典は「日本経済新聞 朝刊」私の履歴書 1993年10月2日)P59~P60 講談社

(※4) 秋山ちえ子「種を蒔く日々 九十歳を生きる」「第四章 思い出にひたる その2」 「私の「しんまい」時代」 P124~P127 講談社

(※5) 秋山ちえ子「種を蒔く日々 九十歳を生きる」「第五章 伝えておきたいこと」 「私たちは主権者」 P155~P156 講談社

(※6) 秋山ちえ子「さよならを言う前に」 「第1章 毎日の暮しの中から」 「3 今は昔の物語ばかりーわたしの銀座-」P58 岩波書店

(※7) 秋山ちえ子・永六輔編著「ラジオを語ろう」 P3 岩波書店
秋山前掲「風の流れに添って ラジオ生活五十七年」「第一章 私自身の自己紹介」「二つの昭和」P45 講談社

(※8) 秋山前掲「風の流れに添って ラジオ生活五十七年」「第一章 私自身の自己紹介」「二つの昭和」P40~P41 講談社

(※9) 秋山・永前掲「ラジオを語ろう」 P5 岩波書店
秋山前掲「風の流れに添って ラジオ生活五十七年」「第一章 私自身の自己紹介」「二つの昭和」P45 講談社

(※10) 秋山前掲「風の流れに添って ラジオ生活五十七年」「第五章 内緒話」「内緒話・その2 取材費少なく一級の放送」P131 講談社

(※11) 秋山前掲「風の流れに添って ラジオ生活五十七年」「第五章 内緒話」「内緒話・その2 取材費少なく一級の放送」P134 講談社

サポートいただいたお金については、noteの記事の質を高めるための文献費などに使わせていただきたくよろしくお願い申し上げます。