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「密林の聖者」シュバイツァーはどう評価されてきたか⑦-なぜシュバイツァーが賛美されたのか-

 シュバイツァーについてどのような評価があったのかに対する考察です。前回までシュバイツァーをどのように人々は見てきたのか肯定的評価、批判的評価をご紹介してきました。
 最終回の今回はシュバイツァーが日本で賛美されてきた背景について、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。(1回目2回目3回目4回目5回目6回目

(シュバイツァー自体の植民地主義、人種主義の主張に関する記事はこちら 「密林の聖者」とはどの視点によるものか 1回目
「密林の聖者」とはどの視点によるものか 2回目
「密林の聖者」とはどの視点によるものか 3回目


なぜ日本でシュバイツァーが賛美されるようになったのか

 シュバイツァーはノーベル平和賞受賞や、メリット勲章受勲などがあり、日本以外での評価が低いわけではない。ただ、ここではキリスト教が多数派ではない日本でなぜ賛美されるようになったのかについて、考察したい。

教科書・経済団体の役割

 楠原彬は、ジェラルド・マクナイト「シュヴァイツァーを告発する」の解説「シュヴァイツァーその虚像と実像」の中で、一時期学校の教科書でシュバイツァーのことを取り上げていたことが、シュバイツァー神話の一因となったとして次のように述べる。

 教科書のなかでもとくに、高校の「倫理・社会」の教科書では、特別の項目を設けてシュヴァイツァーが記述されている。5、6年前(筆者注:日本語訳の初版は1976年)までは「倫理・社会」の全教科書にシュヴァイツァーが登場していたが、最近では2、3の教科書だけになっている。それらのなかでも、大島康正著の『倫・社』(学研書籍)がもっとも大きくあつかっており、かつもっとも問題をはらんでいる。
 「第2章 現代の思想」(筆者注:原文は ´ で強調) のところで、(略)最後にシュヴァイツァーが登場する。「現代の思想」でアジア、アフリカ、ラテン・アメリカの思想(家)」が全く出てこないのがこの教科書の特徴である。
 「倫理」や「思想」とは無縁な存在が第三世界の人間たちと言いたげである。これは、シュヴァイツァーに大変近い考え方である。(注:数字は原文では漢数字以下の引用文も同じ)

楠原彬「シュヴァイツァー・その虚像と実像」
(ジェラルド・マクナイト「シュヴァイツァーを告発する」 P335~P336 すずさわ書店)

楠原が教科書の執筆者の中に、シュバイツアー同様の人種観、植民地観と共通するものがあると指摘したことに、私たち日本人の思考が欧米列強の人種主義、植民地主義に無批判であったことをうかがい知ることができる。また、梅原は、経済同友会が1969年に開発途上国の平和建設部隊として進んで志願する青年を育成することを提言した際、シュバイツァーに言及していたことに触れ、シュバイツァー神話が社会的に力を持つ組織によって利用されていたともしている。(※1)加えて、シュバイツァーを敬愛する団体であった「シュバイツァー友の会」が政治家、学者、宗教家などによって結成されていたことについて言及し、彼らの喧伝の役割の大きさも指摘している。(※2)

シュバイツァー友の会の役割

 佐伯真光は、前述の「シュバイツァー友の会」について言及した上で、そこの機関紙の論文からはシュバイツァーがカリスマ的、教祖的存在として崇められている様子をうかがい知ることができるとしている。(※3)ただし、佐伯はシュバイツァーの死後は日本でもなだ・いなだなどによってシュバイツァーを批判する動きが出てきており、そこに重要な意義があるとしている。(※4)その一方、次のような懸念も表している。

 よくいわれることだが、日本人は熱しやすく、さめやすい。シュワイツァー死後5年もたつと、一般の日本人はいつのまにか「密林の聖者」という神話を忘れてしまったようにみえる。神話が神話でなくなるのは喜ぶべきことだが、その神話がまた復活してくるのを防ぐためには不断の批判が必要である。神話と一緒に批判まで忘れてしまっては危険である。

佐伯真光 「南無シュワイツァー大明神」 「アメリカ式・人の死にかた」 P122 自由国民社

当時の日本人の国際的地位の向上に重ねたとする見解

 佐藤誠は、シュバイツァーが日本人によって賛美された時代背景として、シュバイツァーがノーベル賞を受賞した1952年という年に注目する。佐藤によると、当時の日本は、① 国際連合未加盟国であった、② 国際社会への完全復帰の願いがあった、③ 第2次世界大戦中の被害・加害体験を通じた平和への求めに支えられた国際社会を舞台とした人道主義への支持の存在があったとしている。佐藤は、これらの要素が、シュバイツァーの医療活動や、核兵器廃絶の主張に対して、日本人が強い共感を感じたのではないかとしている。(※5)ただし、当時の日本人はシュバイツァーの言動から西洋に関心はあったものの、アフリカには関心を持たなかったとして、次のことを指摘する。

 かりに日本の植民地支配下、占領下で病に苦しむ人々の救済に生涯を捧げた人物がいたとして、はたして日本人がシュバイツァーほど関心をもったかどうか。「アフリカが遠かった」からこそ、シュバイツァーは日本人の関心を引いたのではないか。

佐藤誠「アフリカ認識とオリエンタリズムーシュバイツァーを見る眼差し-」 P19
「アジ研ワールド・トレンド No.64」(2001.1)

佐伯の指摘は、日本人自身が植民地を行った支配者の側であるという自覚がなかったため、植民地とされた被支配者の側の観点を持つことに欠けていたことを意味するものと言えよう。

私たちはシュバイツァーのガボン民衆、社会への姿勢を無条件で批判できるか

 以上、シュバイツァーの自覚なき人種主義、植民地主義の姿勢を批判してきた。ただし、本文でも言及してきたように、私たち日本人もシュバイツァーの人種主義、植民地主義の姿勢に無批判であった、ないしあるのだということを忘れてはならない。

 伊藤正考はアパルトヘイト時代の南アフリカにおいて白人政権の人種主義に抵抗をしてきた、新生南アフリカの政権党であるANC(南アフリカ国民会議)の幹部から日本人が「名誉白人」の扱いを受けていたこと、日本のアパルトヘイトに対する姿勢について、以下のように問われている。

 「南アフリカが日本人を名誉白人として扱っているが、それは日本人のアイデンティティ(特性、独自性)を否定するものと思わないか」(略)
 名誉白人という奇妙な地位についての質問は、実は端的に「おまえは有色人種の一員という意識を持っているか。黒人の敵か味方か」と迫っているのであって、南アと日本の関係を聞いているようで、実は聞いていない。自分を西側先進国の一員として、あるいは白人の亜種として位置づけているのか、日本人の帰属意識を確かめようとしている。

伊藤正孝 「人食い日本人」 「アフリカ33景」 P212~P213 朝日新聞社

ANC、南アフリカはもちろん、アフリカ諸国の人々が、私たち日本人がアフリカ諸国において、民族独立闘争を支持する立場を採らず西側先進国の一員という意識で行動し、欧米諸国と「同等扱い」されることを喜ぶ姿勢に対し、不快感と不信感を持っていることを、伊藤は婉曲的に表現している。

 そして、-私個人は「それ故に」という見解であるが-私たち日本人は、自分たちの植民地の問題にきちんと正面から向き合うことができなかった、できていないという問題がある。シュバイツァーがアフリカ諸国では評価されていないと言及した寺村輝夫は(※6)、ガボンで知り合った台湾人の何さんから日本語で手紙が送られたとき、何さんが日本の植民地時代に教育を受けた台湾人(※7)であるということを踏まえ、次のように語る。

 タイワンは、1895年に、日本が中国からとりあげた、植民地でした。もともと中国の土地であり、中国のことばをしゃべっていた人々に、日本は、日本語を使うよう強制しました。(略)
 わたしは、この本の中で、どれい制度はけしからん、植民地主義はわるいことだと、叫びつづけてきました。
 しかし、わたし自身、そのけしからん日本人であり、わるい日本の人間であったわけです。

寺村輝夫「アフリカのシュバイツァー」 P224 フォア文庫

寺村のシュバイツァー批判が、寺村自身のアフリカとの関係の交流の深さと同時に、自身が帝国主義の日本に生まれて育ち、日本が朝鮮、台湾、中国などのアジア諸国へ侵略、植民地化したことに目を背けず、自分自身の問題の一つとして行っていたものであったことがわかる。(※8)シュバイツァーの植民地主義とそれに基づくガボンをはじめとしたアフリカ諸国への差別、偏見に対する批判は、同時に私たち日本人がアジア諸国に対して行った帝国主義、植民地主義に基づく差別、偏見に対する批判にもつながっていることを忘れてはならないだろう。

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

脚注

(※1) 楠原彬「シュヴァイツァー・その虚像と実像」P337
(ジェラルド・マクナイト「シュヴァイツァーを告発する」 すずさわ書店より)

(※2) 楠原「前掲」P338

(※3) 佐伯真光「「南無シュワイツァー大明神」 「アメリカ式・人の死にかた」 P117 自由国民社

(※4) 佐伯「前掲」P121~P122

(※5) 佐藤誠「アフリカ認識とオリエンタリズムーシュバイツァーを見る眼差し-」 P19「アジ研ワールド・トレンド No.64」(2001.1)

(※6) 「密林の聖者」とはどの視点によるものか①-日本人のシュバイツァー観への疑問-|宴は終わったが (note.com)

(※7) 植民地時代の台湾に生まれた戴国煇は、少年時代に日本人教師から受けた差別と偏見を交えた罵声および教育における差別について、次のように述べる。

 「馬鹿野郎! どこを出たチャンコロだ! 来年からとってやらないゾ!」この蛮声は、いまなお私の脳裡にこだますることがある。難関を突破して、中学に入学した第二週目の「国語」(筆者注:植民地宗主国である日本語)の時間のことだった。朗読の指名を受けて、読み始めたとたんに蛮声の落下だ。
 「チャンコロ」とは、いうまでもなく、台湾人に対する日本人の最低の侮辱語で、「とってやらないゾ!」は、私の出た公学校(筆者注:原文ママ)からは、新入生をとらないというおどしである。当時、台湾人子弟の小学校は、終戦直前に乙号表国民学校と改制され、教科書は、わざと日本人小学校、後の甲号表国民学校用を一学年ずつ繰り下げて使用し、入試を裏で操作していた。

戴国煇 「台湾と台湾人」 「いまも疼くいまわしい蛮声」 P297 研文出版

(※8) 寺村輝夫「アフリカのシュバイツァー」フォア文庫 P223~P227

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