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政治に対する雑感9-政治に対する傍観者的姿勢の私-


政治に対するリスクを負いたくない私

 私のnote記事を改めて振り返ってみると、政治にまつわる記事が多くを占めていることを感じさせる。ただ、政治に対する倦怠感も表れてはいるものの、具体的な行動に移してはいない。私が、政治についてあれこれと主張はしても実際の行動に移すことができないのは、一つは、勤め人としての安定した収入や将来性の確保、自身の周りに対する評価を犠牲にしてまで、職業としての政治家はもちろん、運動としての政治活動を行うリスクを負いたくないというのがある。

 日本の政治風土は、政治に携わる者、関係者と有権者との間に壁があるため、国政はもちろん地方政治においても政治活動を行っている者は圧力団体、市民団体を問わず特殊な人たちというイメージで見られる傾向がある。そうした状況において政治活動を行うには、職場、仕事での関係先、地域社会からの自身に対して何等かの形である種のレッテルを貼られてもそれを乗り越えるだけの覚悟と強い精神力、理念が必要だ。なので、まじめに政治に携わっている人物は、私の政治に対する姿勢を、自らは安全な場所に留まった限りにおいて政治を論じている点で、評論家的態度に留まっていると批判的に見ている人もいることだろう。

政治運動に対する醒めた見方をする私

 政治に対してある種距離を置きたいと思うもう一つの理由は、私自身が政治及び政治に関わろうとする人、団体自体に対する、ある種の醒めた感情を抱いていることにある。特に利益団体よりも市民団体に対して、その傾向が強いのではないかと感じている。

 かつて私は死刑廃止の運動についてある団体に対して、メンバーの一人として短期間活動をしていたことがある。菊池事件(※1)によって冤罪による死刑執行が疑われた事例があったこと、75歳の高齢死刑囚が車いす生活でまともに立つこともできない状況で首に縄を掛けられて死刑が執行されたこと(※2)などから、死刑は刑罰としてふさわしいものではなく、実際に何等かの形で死刑廃止に向けた行動をするべきではないかと考えるようになったからである。

 ただ、市民運動家はある種の理念、理想を強く持っている人たちであったためか、自身の主張や行動のあり方の「正しさ」のみを繰り返すこと、そのため他者の意見や運動のあり方にスタンス、人権に対する価値観の違いを認識しないか、認識しても無視をするといった傾向が強かった。また、どの社会にも広い意味での「政治」があるように、発言力の強い者の意見が通ることがまかり通っており、人権を主張する団体でありながら風通しの点や民主的な運営といったものからは程遠い傾向を感じた。

 建前と本音が違うことは得てしてありがちなことと頭ではわかっていても、市民運動におけるこのギャップに私はついてくることができず、活動に携わることをやめることにした。もちろんすべての市民運動や死刑廃止に携わる運動がこのような非民主的で風通しが悪いわけではない。袴田事件の無罪判決を勝ち取るべく、長年尽力してきた門間幸枝さんが代表を務める「無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会」のように、団体内の権力闘争などとは無縁の真に袴田さんの人間の尊厳を取り戻そうと尽力している人たちや団体もある。しかし、残念ながら市民運動の中には政治活動を優先するあまり、本来の理念や目的から外れ、一人ひとりの市井に生きる人たちの想いを軽視しているのではと疑いたくなる団体もある。

 本当に死刑を辞めたいと心から思うのであれば、私が苦手な他者との協調性の確保やコミュニケーションの確保をして、もっと「大人」になることが必要であるとも思う。しかし、どうしても自分のやりたいことで嫌な事を我慢することに私は耐えることができなかった。

関心を持ち続けることの大切さ

 政治家、利益団体、市民団体において必ずしも市井に生きる私たちの声が届かない、反映されない状況であるが、私たちはこのような政治状況を傍観、放置して、自分には関係がないこととして自身の生活の安定を図ることにのみ専念するしかないのだろうか。下手に政治に関心を持つよりは、自身の生活の安定を図ることを優先したほうが、費用対効果の点でも自身にとってもプラスであるには違いない。

 ただ、それでも私は社会問題に関心を持ち続け、その問題の解決を政治に求めるという姿勢だけはそのまま続けていきたい。今は政治に対して行動をしないというときであっても、何らかのかたちで政治的行動をしなければいけないときがあるかもしれないと考えるからだ。そのために、いろいろな社会問題に対して一過性の問題として処理をするのではなく、必要であると考えた問題について、そのまま関心を持ち続けること、そのことが政治に携わることの大切さであるとも考えるからだ。

 来月7日は東京都知事選である。私は一都民として、ともするとパフォーマンスや奇妙な言動ばかりだけが目立ちがちな他人事感の強い都知事選に注目するのではなく、一有権者として都政をどう評価するか、どういった都政が行われるべきかを見極めたうえで、投票に行きたいと考えている。都政についての在り方を、都民の方も、都民でない方も一緒に考えて参りたいと思う。

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

脚注

(※1) 菊池事件-菊池恵楓園歴史資料館 (keifuen-history-museum.jp)

菊池事件については、藤野豊「いのち」の近代史 「藤本差別裁判」P534~P552に詳しい。ハンセン病差別問題の視点からの記述であるが、冤罪による死刑執行の可能性が高いことについての言及がある。

(※2) 「敢えてクリスマスの日に死刑について考える」参照のこと

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宴は終わったが
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