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信仰に対する雑感③-曖昧な信仰の私-
あけましておめでとうございます
あけましておめでとうございます。2025年もよろしくお願い申し上げます。大晦日、元日には初詣で、近所のお寺、神社にお参りに行かれた方も多いかと思います。ちなみに、キリスト教教会においても日本の慣習に従い、1月1日に新年礼拝を行うところも珍しくはありませんが、信仰を改めて顧みるという意味合いからすると、家内安全、商売繁盛といった自らの望みをかなえてほしいという祈りとは異なるかもしれません。
2025年の干支は乙巳であり、「努力を重ね、物事を安定させていく」という意味合いを持つそうです。(※1)そういう意味ではいかに努力をせず、楽して生きていこうかばかりを考えている私としては、ただただ恥ずかしいと思うばかりの年でもあります。そしてそれは私自身の信仰についても同じことが言えるのかもしれません。
マタイによる福音書10章34節~39節
平和ではなく剣を
そんな信仰の浅い私にとっては、次のマタイによる福音書の言葉は思わずたじろぐものがあるのも事実です。
34「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、 と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。35わたしは敵対させる ために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。36こうして、 自分の家族の者が敵となる。37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。 わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。38また、 自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。 39自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、 かえってそれを得るのである。」
この10章34節から35節にあるイエスの言葉からは、無償の愛、憎むべき者をこそ愛せという、憎しみ、対立を乗り越える人類愛こそが、神が人に望むことであり、真の神への信仰となるというキリスト教観と異なるとして、矛盾、違和感を感じる人もいるかもしれません。また、10章36節から37節の父親、母親への愛情、息子、娘への愛情よりもイエスへの愛情が勝るという言葉は、肉親への愛情を否定する言葉とも取れますし、人によっては家族を否定し、信仰にのめり込んだオウム真理教をはじめとしたカルト教団への絶対服従もイメージすることでしょう。
ただ、イエスと他のカルト教団との違いはどこにあるかと言えば、イエスがその後どういう行為をしたのか、という点にあります。イエスは、父なる神の教え、神の愛を通して、父なる神が人を愛するように、自らのエゴを乗り越えて、人が互いを愛し合うことを説きました。しかし、当時のイスラエルの人々は、イエスがイスラエルをローマ帝国から解放するという己の願望をかなえてくれる存在ではないと知ったとき、イエスを憎悪し十字架にかけました。38節には「自分の十字架を担って」とあります。これは自らの運命を自覚し、自らが十字架の犠牲となることで父なる神と人との間の対立を避け、人を愛し続けることをイエスが実践することを言明したものであり、むしろイエスがカルトをまっこうから否定したものと言えるでしょう。
待ち続けている神
今回挙げたマタイによる福音書10章34節~39節にある、信仰を貫く覚悟とは、現代の平和な日本社会においては、キリスト教徒とは無縁の人たちはもちろん、私のようなキリスト教徒ですら、ないと言わざるを得ないでしょう。その意味では以前記事で紹介したかつての潜伏キリシタン(※2)はもちろん、時の権力や社会の理不尽さ、不条理さがキリスト教の精神に反するとして、戦っている、戦ってきたキリスト教徒の人たちにはただただ申し訳ないとしか言いようがありません。彼らからしてみればここで述べる私の言葉も言い訳のように感じることでしょう。
ただ、それでもイエスは私たちがイエスを真の意味で理解し、信じ、イエスについていくことで互いを愛するということを待ち続けているとも思えるのです。それが十字架にかけられたときのイエスの次の言葉に表れていると思うのです。
34そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
イエスを十字架にかけて、罪人であるとして罵倒し、イエスの持ち物を奪おうとする人々が現にそこにいたという事実、また、イエスを知らないとして裏切ったペトロをはじめとした弟子たちがいたという事実、そこを踏まえても敢えてイエスは父である神に人を「赦す」ことをこい願いました。そこには、私たちの未熟さゆえに自らを優先し、イエスから離れてしまっている状況においても、いずれイエスを受け入れるだろうというイエスの人に対する絶対の愛情、人を信じるという姿勢が表れています。
私たちは最初に抱いていた理念や崇高な想いは、だんだんと時を経るうちに妥協したり、断念しがちです。イエスが死の間際にあっても人を愛する、という自らの教えを貫いたこと、その想いから私たちは何を学ぶか、2025年の始めにあたって考えていきたいものです。
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私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。
脚注
(※1)
(※2)
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