「密林の聖者」とはどの視点によるものか②-日本人のシュバイツァー観への疑問-
シュバイツァーのガボンでの医療活動を単純に日本人が人道主義的とみなしてきたことに対する考察記事です。前回は私のシュバイツァー観と寺村輝夫氏のシュバイツァーのガボン民衆、社会への姿勢に対する批判的見解をご紹介しました。今回はシュバイツァーの著書「水と原生林のはざまで」を中心にシュバイツァー自身がガボン民衆、社会にどのような姿勢で向き合ったのかを考察します。
シュバイツァーのガボン観
民衆、社会観について
シュバイツァーのガボン民衆観、社会観を知るには、当時のヨーロッパ植民者のガボンに対する姿勢及び植民者に対するガボン民衆の反応を知る必要がある。シュバイツァーはその様子について次のように叙述する。
当時の植民者が黒人は怠惰であるとみなしており、それに合わせた形で怠惰と記されているが、シュバイツァーは必ずしもガボンの人々を本質的に怠惰とみなしていたわけではない。黒人が昼夜ぶっ通しで休みなしに重病の白人をシュバイツァーの診療所に(筆者補足:診療所から遠くの場所から)運んだというエピソードにも言及し、ガボンの人々の怠惰を論じる勇気はないとも述べている。(※1)その上で、ガボンの村(筆者注:共同体社会)ではわずかの労働で十分な生活できる環境にあるために、一定の金を獲得すれば植民者の下で労働をする必要がないから自分の村に帰っていくとして、ガボンの人々は怠惰ではなく自由人であると評している。(※2)
以上のシュバイツァーの見解は、一見するともっともらしい理屈に聞こえる。ただ、シュバイツァーは、ガボンの人々の価値観、慣習がヨーロッパの価値観、慣習とは異なる現実は認めてはいるものの、ガボンの価値観、風習を理解、尊重をしているわけではない。それは、ガボンの人々の価値観、風習に基づき現地で布教活動を試みた牧師への批判を前提に、ガボンの人々には権威と愛情をもって接するべきという以下の主張からもわかる。
地域共同体へ別の場所から移動をし、参加を試みる「余所者」が、新たな社会で生活を送る際には、まずその社会で行われている慣習、制度を理解、尊重することが求められる。その上で、その社会の慣習、制度の中に全体の利益や個人の人格、尊厳を否定する問題があるため、従来と異なる理念、手法を提案するのであれば、現地の人々、社会の理解、信頼を得るための努力を積み重ねていくことが必須となる。(※3)
だが、植民地は、軍事力、経済力を背景に地域共同体の主権を奪うことで、地域共同体に「余所者」たる植民者の都合、価値観、利害を、一方的に押し付けることが可能な制度なのである。そこからすれば、植民地支配が本質的に被植民者の、意思、尊厳が尊重されないシステムであることは明らかである。引用箇所からは、シュバイツァーが、ヨーロッパ、具体的には植民者の観点からだけでガボンの人々、社会に接しようとしていることをうかがい知ることができる。
また、シュバイツァーの姿勢には、自身の仕事は神の召命によるものであり、その召命をもってガボンの人々、社会に向き合う以上、彼らに対して神の名の下にガボンの人々と接すべきという権威主義的な色彩を持つキリスト教信仰に基づく召命観があったことも考えられる。
シュバイツァーは医者になる前は神学者、牧師として活動をしていた。神学者、牧師として活動をしていた際には、キリスト教信仰に基づく奉仕活動が自身のあるべき召命であるとして、孤児救済や浮浪者・元囚人への社会復帰の世話を行っていた。(※4)ただ、これらの活動は個人ではできず、何らかの団体に所属することでしか活動できないとして、個人による直接的な奉仕活動を行うことを望んだシュバイツァーが選択したのが、ガボンにおける医師としての活動であった。(※5)本質的にガボンの人々、社会を理解、尊重し、交流する、という要素は少ないのである。その意味で、シュバイツァーはヒューマニズムはあっても、当時の帝国主義諸国の価値観であった植民地主義を否定はもちろん、相対化するという発想にまでは至っていないと言える。
以上、シュバイツァーのガボン民衆、社会観について考察した。次回はシュバイツァーの植民地主義に基づくヒューマニズムがどのようなものだったのかについて皆さんと一緒に考察して参りたい。
私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。
脚注
(※1) アルベルト・シュバイツァー 野村實訳「水と原生林のはざまで」 岩波書店 P113
(※2) シュバイツァー 野村實訳「前掲」 P114
(※3) もちろん、地域共同体の人たちは地域共同体の人たちで、自身と異なる価値観、制度を唱える人たちに排除ありきで対応するのではなく、どういった背景が自身と異なる価値観、制度を唱える人にあるのかを知るべく、対話を通じて共に社会を運営していく姿勢が求められる。ただし、本文でも触れたように、植民地は一方的に被植民者の制度、慣習、意思を無視する制度であり、対等な関係で双方向の対話、交流ができない構造でにある。その点を見落とすと、シュバイツァー、植民者とガボンの人々との間の文化、社会摩擦の問題と誤解する可能性があることに留意すべきだろう。
(※4) 小牧治・泉谷周三郎共著「シュバイツァー」 清水書院 P47
追記:アルベルト・シュバイツァー 竹山道雄訳「わが生活と思想より」P103~P105に自身の体験として言及がある。
(※5) 小牧・泉谷 「前掲」 P48~P51
追記:シュバイツァー 竹山道雄訳「前掲」P105~P113に自身の体験として言及がある。
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