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「中立日本の防衛構想」か 「現実主義者の平和論」か①ー坂本・高坂論争に見る安全保障に関する論争について

 坂本義和が「世界」1959年8月号に発表した冷戦期における日本の安全保障についての論文「中立日本の防衛構想」とそれへの反論としての高坂正堯が「中央公論」1963年1月号に発表した「現実主義者の平和論」を中心とした考察になります。

 1回目の今回は「中立日本の防衛構想」について皆さんと一緒に考察して今りたいと存じます。


坂本義和「中立日本の防衛構想」

はじめに

 坂本義和「中立日本の防衛構想」は、「世界」1959年8月号に掲載した、(旧)日米安保条約(以下「旧安保条約」)及び新(現行)日米安全保障条約(以下「新安保条約」)によるアメリカに依存しない形での安全保障に関する代案を提示した論文である。ここでは、坂本が中立を唱えた背景を踏まえ、坂本論文の提言について考察して参りたい。

核戦争勃発リスクへの見解

 坂本は、核戦争の勃発は対立関係にある国々-当時はアメリカとソ連-における相互不信の中で、相手側が自国の領内を攻撃しているとみなした「錯誤」によって起こる可能性があるが、この「錯誤」に注意を払わない状況にあるとして次のように批判する。

 核兵器戦争は交通事故と違って、一挙に数百万数千万の人間を犠牲にする性質のものである。それにもかかわらず果たして何人の人が、道路を横切る時ほどの注意を「錯誤による破滅」の上に払っているかが疑わしいとしたら、それはまことに驚くべきことと言わなければならない。なぜならそこに含まれているのは、われわれ一人ひとりが無事に生きていけるかという、単純素朴な生存の問題に他ならないからである。

坂本義和「中立日本の防衛構想」(岩波書店  坂本「戦後外交の原点」 P102)

 その上で、1959年参議院選挙での日本社会党の安保改定反対の訴えは、通り一遍の演説と安保反対の連呼でしかなく、問題の重要性を認識したものではなかったと批判し、核戦争を含めた戦争勃発によって人々の生命が危機にさらされるということを意識できていないとの見解を示している。その上で、政治家に次のことを訴える。

 直接的な日常感覚の世界にまどろみ込もうとする大衆の中に想像力を喚起するためには、まず政治的指導者自身が強烈な想像力の持主でなければならないだろう。そして直接所与の世界を突き離すだけの想像力を備えた政治的指導者にしてはじめて、感覚的な日常的利益が実は「超感覚的」な核兵器時代の国際的危機と直結(原文は上に´以下同じ)していることを、国民の胸に訴えることができるのである。

坂本義和「中立日本の防衛構想」(岩波書店  坂本「戦後外交の原点」 P106)

 ここからは坂本が、当時-2024年の現在においても、ロシアのウクライナ侵攻における核による威嚇というリスクの意味では、1959年当時以上にと言うべきだろうが-、核戦争が勃発する可能性とそのことによって起こるであろう取り返しのつかない惨劇を、政治家も民衆も実感として十分に理解できていないと考え、深い憂慮を抱いていることが伺える。私たちの中にある「常識」を超えた誤った惨劇などは起こるはずがない、という希望的観測バイアスを否定しようとする意味での国際政治学者の「リアリズム」が感じ取れる。

日米安保による同盟に対する見解

 坂本は日米安保が同盟関係である以上、米ソ間で戦争状態となった場合にはソ連にとって日本は敵国とみなされるとして、アメリカの同盟国であることをやめ「生存のための軍事的中立」を行うべきとしている。(※1)坂本は新安保条約は戦争を前提とした条約であるとした上で、(旧)安保条約、米軍基地、自衛隊は戦争防止(筆者注:抑止力)であるとする主張について次のように批判する。

 この点については二つの面から批判を加えることが出る。第一に、強力な軍備は戦争を阻止するという命題は、これを古今東西すべての事例について一般的に(原文は上に´以下同じ)否定することはできないであろう。しかし同様に、これを一般的に肯定することも等しく誤りである。(略)こういった問いに答えるためには、もはや一般的にではなく、個々の具体的な場合についてこの命題を証明しなければならない。

坂本義和「中立日本の防衛構想」(岩波書店  坂本「戦後外交の原点」 P108~P109)

 「軍備」である以上は戦争に備えるものであり、最悪事態(原文は上に´以下同じ)には行使する可能性と決意とが伴っていなければならない。もし最悪事態にも戦う可能性がないならば、それは張子の虎であってそもそも「戦わずして勝つ」こと自体不可能になる。(略)軍備がいかに「戦争防止」を謳っていようとも、われわれは予想される最悪事態を考慮の外におくことはできない。(略)
 予想される最悪事態中での最悪事態は、言うまでもなく米ソの全面戦争であり、これは当然に核兵器戦争であると考えられる。こうした戦争の場合、安保条約や基地が日本の安全保障に何ら役立たいばかりでなく、かえってソ連・中国の攻撃を誘致するだけだということについては、日米安保体制の支持者にも異論はあるまい。およそ戦時に運命を共にするのが同盟の本質なのであるから、日米安保体制を擁護する人々には、最後にはアメリカと共に滅ぶことを覚悟しておかなければならない。

坂本義和「中立日本の防衛構想」(岩波書店  坂本「戦後外交の原点」 P109~P110)

 坂本が、日米安保が同盟という関係であり、米ソによる戦争によって日本が巻き込まれるリスクを回避することはない以上、日米安保が戦争を防止するという主張はあり得ないという立場であることが伺える。その上で坂本は、日米安保体制及びそれに基づく政府の防衛計画は戦争に備えたものであり、局地戦争とされる概念も日本本土は日本国民にとっては局地ではない以上、全面戦争と異なる局地戦争という概念は日本国民にとっては存在するものではないとし、日米安保体制、防衛計画は日本国民を脅かすものであると述べる。(※2)

国連軍駐留による中立

 以上を踏まえた上で、坂本は、日本社会党が提示した、米ソ中日から成り立つ集団安全保障によって日本の中立と安全保障を行うとする日米安保の代案を補強する形で、冒頭で触れた国連の指揮下による中立諸国の軍隊から構成される国連軍の日本での駐留を提言する。坂本は、国連軍のモデルとして1956年のスエズ危機における国連軍の駐留を参考にした上で、自衛隊についても、警察予備隊程度まで縮小した上で国連軍司令官の下に置くことし、単に日本のみならず各国での紛争における解決の一手段としての国際貢献の役割を行うべきとしている。(※3)

 坂本は、晩年、東西冷戦に中立的な立場による国々から構成される構成される国連軍の日本への駐留構想について、アメリカとの同盟というアメリカ中心のユニラテラル(一方的)な同盟に代わる、マルティラテラル(多国間)の安全保障であり、それが平和憲法としての精神の具体化であるとしている。(※4)坂本にとっては、平和は単なる自国のことにおいてのみではなく他国の平和に対しても積極的であるべきという発想がそこにあると言えるだろう。

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 いかがだったでしょうか。次回は、坂本論文への反論である高坂論文「現実主義者の平和論」について皆さんと一緒に考察して参りたいと思います。

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

脚注

(※1) 坂本義和「中立日本の防衛構想」(岩波書店  坂本「戦後外交の原点」 P106~P107)

(※2) 坂本義和「中立日本の防衛構想」(岩波書店  坂本「戦後外交の原点」 P114~P116)

(※3) 坂本義和「中立日本の防衛構想」(岩波書店  坂本「戦後外交の原点」 P119)

(※4) 坂本義和 「人間と国家」(下) 岩波書店 P163~P164

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