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信仰に対する雑感-聖書はイスラエルのガザ・パレスチナ侵攻を正当化しているのか-

 現在、イスラエルによるパレスチナへの武力鎮圧によって多くのパレスチナ人は生命、財産を奪われ、また生活苦にあえぐことを余儀なくされています。この問題に対する背景は日々のニュース解説などでも紹介されていますが、今回の記事は私のキリスト教信仰を省みることも含めて、聖書的にどのように解釈すべきなのかについての私の想いをつづっています。

 読者の皆さんの大半は非キリスト教徒であり、非アブラハムの宗教(※1)かと存じますが、いつもと同様に皆さんの忌憚のないご意見をいただきたく存じます。


イスラエルによるガザ・パレスチナ攻撃

 イスラエルによるパレスチナ人への弾圧は後を絶たない。10月7日、パレスチナ人の武装組織ハマスのレイム音楽祭での襲撃による殺害及び人質を取った「レイム音楽祭の虐殺」に対し、イスラエル当局は軍隊を動員して、パレスチナのガザ地区を攻撃した。イスラエルは、ハマスの潜伏先であるとして病院、民間施設などへも攻撃しており、多くのパレスチナ人が犠牲になっている。

 多くのパレスチナ人が犠牲となっている事について、国際世論は今回のイスラエルの行動をかならずしも支持しているわけではない。親イスラエルとされるアメリカでも、イスラエル当局がテロ撲滅の名の下にパレスチナ人が犠牲を出している状況を問題視し、パレスチナを支持する人も出ている。(※2)民衆は政治家よりも先に本質的な問題が何であるのかを、目を曇らせることなく認識できるということを改めて感じさせられる事実である。

「約束の地」とは

 読者の皆さんも、新聞、テレビなどのニュース解説でさんざん報道されているため、すでにイスラエル建国の根拠とされる聖書における「約束の地」についてはご存じのことと思うが、一応触れておきたい。

創世記12章7節:主はアブラムに現れて、言われた。
「あなたの子孫にこの土地(筆者注:カナン人が住んでいた土地)を与える。」
創世記15章18節:主はアブラムと契約を結んで言われた。
「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える。
創世記17章8節:わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」

旧約聖書(新共同訳)P15,P20,P21

 ユダヤ教ではこの箇所がアブラハムの子孫である代々のユダヤ人に対してその土地を与えたものと解釈されているほか、イスラエル建国の根拠としても用いられている。これに対しキリスト教の主流派では創世記の以上の箇所を次のように解している。

ガラテヤの信徒への手紙3章16節:アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。
ガラテヤの信徒への手紙3章27節~29節:洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは、皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

新約聖書(新共同訳)P346.P347

パウロの聖書解釈では、アブラハムの子孫とはアブラハムの一族である子孫という意味ではなく、アブラハムを主なる神からの宣託を受けた存在と解釈し、主なる神の宣託、意思を次に受け継ぐ存在は何かという観点からアブラハムの子孫とはイエス・キリストのことを指すと解釈していることがわかる。また、「約束の地」をユダヤ人に与えた具体的な土地と解釈しているのではなく、私たち一人ひとりが、イエス・キリストが「約束の地」を「統治」しているという事実を、イエス・キリストへの信仰によって認め、民族、性別、社会的身分を超えてすべての人々が隣人になり、兄弟となるという抽象的概念として解釈していることが読み取れる。

 もちろん、これはユダヤ教における解釈ではないからユダヤ教徒が受け入れることは教義上あり得ない。まして、キリスト教国において迫害され続けた歴史、とりわけユダヤ人撲滅を試みたナチス・ドイツによるホロコーストを経験したユダヤ人にとっては、自身の主権国家を持たなければまた迫害されるという危機感と恐怖が強い。ユダヤ人からすれば、自分たちが再び迫害されないように、何らかの根拠に基づき主権国家確立を正当化し続ける事が切実な問題となっていることも事実である。

パレスチナ人の迫害を聖書は許しているのか

 では、イスラエルの建国によって現にそこに生活基盤を置いていたパレスチナ人の迫害、追放につながったことについてはどのように考えるべきなのだろうか。先日、私が教会の礼拝に集った際に牧師先生は聖書の次の箇所に言及した。

出エジプト記22章20節:居留民を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。

旧約聖書(新共同訳) P131

その上で、現在のイスラエル当局の行動は、この聖書にある主なる神がモーセとの間で交わしたシナイ山での契約に反しているとして、主なる神の意に背く行為をしているとした。もちろんこのような指摘をされても、右翼的なユダヤ教のラビや信者が聖書やタルムードなどを根拠にイスラエル当局のパレスチナ人への迫害、殺害の正当化を試みることは想像に難くない。しかし、シナイ山でのモーセと主なる神との契約は聖書の箇所ではとりわけ重要な部分であり、この精神、理念に反してまでパレスチナ人への弾圧の正当化を試みることは、宗教者、信仰を持つ者のあり方として妥当なのかという疑問を持つのは私がユダヤ教の信者ではないからなのだろうか。

 明日は12月24日。クリスマス・イブという神の一人子であるイエスの生誕
を祝う前日である。イエスの生誕は、神が私たち人間に与えたもうた最高の贈り物であった。しかし、私たちは、そのイエスを十字架にかけ、またイエスの十字架をユダヤ人の責任であると責任転嫁し、ユダヤ人を迫害し、絶滅まで試みるという愚行までした。そして、そのことがユダヤ人をして、今度はパレスチナ人への迫害にもつながっているという遠因にもなってもいる。

私たち日本人はイスラエルのガザ・パレスチナ攻撃の問題の本質を理解できているか

 ともすると、日本人はアブラハムの宗教の影響を受けていないとして、パレスチナ人の迫害に対して他人事のように人道主義を唱え、かつそれ故に一神教は不寛容であり、多神教の国である日本は寛容であるというお題目を唱えがちである。だが、日本の移民政策に対する非寛容さ、在日韓国・朝鮮人、アイヌ・沖縄に対する差別、偏見などを考えたとき、私たちは本当に寛容な社会を築いていると言えるだろうか。私たち日本人はイスラエルの被害者と加害者の側面、パレスチナ人の現在置かれている悲劇的状況を理解した上で、今回のイスラエルによるガザ・パレスチナ攻撃の深刻さを論じているだろうか。イスラエル・パレスチナ問題を自らが犯した問題を省みるということを踏まえたものとして考えない限り、私たち日本人はイスラエルからもパレスチナからも本当の意味での信頼が得られることはないだろう。

お知らせ

 次回の投稿は2023年12月30日(土)午前7時から午前11時とさせていただきます。次回の投稿は本年最後の投稿として、今年1年の私のnote記事を振り返る内容となっています。

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

脚注

(※1) アブラハムの宗教とは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の3つの宗教を指す言葉。

(※2) 親イスラエル国家 アメリカで何が?若者にパレスチナ支持広がる | NHK


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宴は終わったが
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