林芙美子『浮雲』の感想
林芙美子『浮雲』を読んだ。戦時下の仏印で出会って恋に落ちた男女二人が、敗戦後の日本で落ちぶれながらどうにかこうにか生きていくというストーリー。私はこの話を、虹を見てしまった人の残酷な運命を描いているなと感じながら読んでいた。
作中で「虹のようなものに酔っ払って暮らしていた」と語られる仏印ダラットでのロマンスを経験したゆき子と富岡は、その思い出だけにすがって結び付いている。だから二人の心情はすれ違ったまま、目の前の相手ではなく過去の幻想を追い求めて、失望したり虚しがったりしていて、想い出はいつもキレイだけど それだけじゃお腹が空くわ状態になっている。
恋愛に限らず、一度キラキラしていた日々というか、あ、おれ今が一番充実しているわという時期を過ごしてしまうと、その充実が失われたあとなお生きていくのが難しくなってしまう。オリンピックで優勝した後のアスリートや、魔王を倒した後の勇者がその後どう社会復帰していくかと同じ問題で、今後の人生で何を成し遂げても、あのころの充実感にかなわないとわかってしまった人の悲しみがそこにはあると思う。
『浮雲』の二人は最期まで思い出にすがる以外の生き方を見付けられず、仏印とよく似た景色を求めて屋久島まで逃れていく。しかし、ようやく逃げ延びた屋久島でゆき子は肺病にかかり、呆気なく死んでしまうのだ。なんて残酷な話だろう。ちぎれてはくっつき、やがて流れて消えていく浮雲のような生が人の運命ということだろうか。運命と書いてさだめと読ませるような無常観。安直な結末で、そこは不満だった。あの頃に戻れないと知った二人がどう心の始末をつけるかまで書いてほしかったのだが。二人が別の生き方を見付けるにはもう遅いので仕方がなかったのだろうか。
タイトルが揶揄されている小説化になろうの「もう遅い」「ざまぁ」系の一群の作品も『浮雲』や敗戦後に書かれた多くの小説と同じように過去の挫折を背景にしているが、そのストーリーには無力感がなくある意味で健全だ。しかし現実にはざまぁと意趣返しをしてみても失ったものは戻ってこないので、やっぱり人は過去に囚われたまま浮雲になるしかないのかもしれない。