どうしてお金がないんですか?(2021/某日#2)
給料日になっても給与が支払われなかった。
これを「遅配(ちはい)」と呼ぶそうだ。知らなかった。こんなことがあるなんて。私はあんまり社会派のドラマとか小説、漫画などに触れることがなかった。少しでも触れていれば、こういう言葉があるんだということくらい知っていたかもしれない。
私は会社へ電話をした。会社は、というが規模の小さいもので、事務を担当する人間なんてものもなかったくらいだった。全て社長がやっていた。
ゆえに、問い合わせ先は社長だった。
念のため銀行口座を確認しに行って、弁護士の言う通り確かに残高が動いていないらしいことを視認してから電話を鳴らした。目の前の仕事、というよりなにより、自分の生活が脅かされているということは何よりも優先するものだった。
「はい、もしもし……」
社長の声は潜ませたような声だったと思う。
「こまえです。お疲れ様です」
「あっ、はい……」
あんまり、相手の口調や様子に注意を払うことは出来なかった。私は必死だったのだ。
「あの、私はいま、銀行口座の通帳を弁護士が持っていまして」
私が自己破産したことや生活保護を受けていることは既に話していた。万が一があったとき、その方面に連絡を入れてもらうことがあるかもしれないし、逆にその方面から連絡があることも可能性として考えていたからだった。
(申し訳ないが、実際にそういうことがあるのかは分からない。ただ、債務については弁護士から連絡が入ることがあるかもしれない)
私の話に、社長は「はあ」とか「ああ」とか相槌を打っていた。繰り返すが、その時の私は少なくとも冷静ではなかったのだ。
「通帳への記帳も、弁護士がやってるんです。給料日も伝えてあります……」
このとき、私は一つ失敗したかもしれないと思った。もしかしたら給料日を間違えて認識していたのではないか? と思ったのである。だが既に月は下旬を迎えており、ここになっても残高は増えたことがないとするなら、少なくともそれ以前の日付ではなかったわけだ。
下旬の振込日、といえばこの日しかないというのは思い込みだったのかもしれない。
社長は変わらず「ええ」とか「うん」とか相槌を打っていた。
「弁護士は通帳へ記帳することが出来なかったと言っています。私も口座を見に行きましたが、変わっていないようでした」
「ああ……」
「あの、振り込み日って〇日でしたよね? 間違って覚えてたら申し訳ないんですが」
社内規定とか、ちゃんと読んでるつもりではあるが、眠たくなるのだ。ああいう、文字が小さくて漢字が多くて数字もごちゃごちゃしてるやつ……。
社長はどんな様子だったのか、今となっては記憶が薄れている。しかしこの発言はよく覚えている。
「会社のお金が無くなってまして……」
ん……?
「でも、お金が入ったら払いますから、安心してください」
え? え?
「お金がないって、え? どういうことですか?」
「会社の口座にお金がないんです」
だからそれがなんでだ、ということを聞いてるんだが?
「すみません、私は会社用の、法人の口座を持ったことがないんで分からないんですが」
日本語が聞き取れているはずなのに、全くそれが理解に至らなかった。
「法人の口座って残高見えないんですか?」
いま思い出しても、この質問は頭の悪い質問だと思う。
社長も苦笑した様子だった。
「そんなことはありませんよ。残高はちゃんと確認できます」
「はあ、そうですか。いつからお金が無いんですか?」
社長は何事かもにょもにょしたようだ。少なくとも私は覚えていない。
とりあえず、以下のことを繰り返し言われたことは覚えている。
会社の口座にお金がないから給与を振り込めない
でも月内にはちゃんと払うから安心してほしい
会社に振り込まれるお金がもう少しで入ってくるからそれまで待ってほしい
頭が真っ白になった。なんにも浮かばなかった。瞑想したときだってこんなに空っぽになったことはない。ふつ、ふつ、と。私はこのことを報告しなければならないことを思っていた。弁護士も、生活保護にも報告しなければならない。
なんて言えばいいんだ?
私は何か持病に悩むこともなければ、ケガをしているわけでもない。本当に必要としている人に生活保護が届いてほしい。
そう思うあまり、私なんかが生活保護費を、たとえそれが少額だったとしても貰うことに大きな罪悪感を抱いていた。いま思うとこれは必要のない罪悪感であり、罪悪感を抱いてしまうのならばそれを何らかの形で返せばいいと思う。
しかしこの時の私はそうは思えなかったのだ。早く生活保護から抜け出して、逆に支える側に立たなくちゃいけないとばかり思っていた。
だからこんな状態にあっても、私は会社を辞めてはいけないと思ったしそんなことをしてはいけないんだと思っていた。
確かにこの月の給与は、月内に支払われた。
社長からの振り込みの完了をした連絡を受け、ひとまず弁護士にそのまま連絡。まだ口座は確認していない旨を伝えたが、弁護士は確かに記帳が出来たことと残高を確認することができたことを連絡してくれた。
弁護士は多くを語らなかったが、とても心配してくださった。ありがたいことである。
翌月も給与は給料日に支払われなかった。
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